まちは何かを生み出す原点のような場所だ。思えば、祭りや革命、テロリズムといった欲望の発露はすべてまちから始まる。しかし、テクノロジーの興隆によって欲望の発露の現場はインターネットに代替され、人口移動や高齢化などの目まぐるしい社会的変化のなかでまちは活力を失いつつある。

そんないまを生きる僕らは、本当にまちに力や可能性があるのだと言い切れるのだろうか。

ラッパーのZeebraさんは、ヒップホップを通じて渋谷を夜の世界から改革しようと模索している。都心部の繁栄と地方部の衰退、全国各地のまちが激動の変化を迎える令和元年。

主体性を保持しながら、常に社会規範に問いかけつづけるというヒップホップのマインドで現場からまちを変えていく彼に、カルチャーがまちを塗り替える想像力を伺う。


渋谷は変わる、ヒップホップは変わる。

――Zeebraさんは日本のヒップホップシーンの黎明期から活動をされていますが、どのようにヒップホップと出会ったのでしょうか。

一番初めのきっかけは、ブレイクダンスを中学一年生ぐらいのときに知ったことですね。1983年のアワードでハービー・ハンコックがライブパフォーマンスをしているのを見ていたときに、ロボットかと思った人が動き出して、「なんだこれ!」って。翌日から学校の廊下で真似してました。アメリカでは同時期にブレイクダンスが取り上げられた映画「WILD STLE(83年)」や「Breakin'(84年)」なども公開されて、そういった映画のビデオが唯一のソースでした。

 それと、DJも衝撃的でしたね。みんなレコード盤というものは、端を丁寧に持って、慎重に置かないといけないものだと思っていたのに、その面を手でこすってスクラッチをするだなんて。それをそれで形にしているところがすごかった。次第にDJにのめり込んでいきました。それからビートも作るようになって。ただ、ビートをつくっても誰かがラップをしないとラップの曲にならないじゃないですか。それでDJをやる仲間同士でその問題を話しているうちに、俺がやる流れになって本格的にラップをやり始めたんですよ。

――1980年代中頃にはすでに日本にそういったカルチャーが入ってきていたのでしょうか。

いやいや、本当にそこからだったんです。かろうじて、代々木公園の歩行者天国でブレイクダンスをやっていた人たちが一組いたくらいだったので、日本にはヒップホップの「ヒ」の字もなかった。そんな状態が四、五年続いていくなかで、段々とDJカルチャーにハマりはじめた人も出てきて日本の状況が変わっていったという感じです。

――どのように日本にヒップホップカルチャーは浸透していったのでしょうか。

ヒップホップだけではなく、クラブカルチャーっていうもの自体が日本に来たって感じですね。それまで日本にあったのはディスコで、それはクラブとは大きな違いがあって。ディスコはただ踊るための場所という感覚だから、言ってしまえば盛り上がることが一番正義。毎日同じ音楽がかかるし、DJはディスコの店員さんがやる。それに対してクラブは文化みたいなものなんですよ。月曜日は◯◯のパーティ、火曜日は◯◯のパーティ、みたいに毎回毎日違うジャンルのパーティをやっている。だからDJを回すのは店員ではなくて、イベンターがブッキングしたDJなんですよ。

それまではクラブというもの自体が存在しなかったんだけれど、80年代中頃からでき始めていった。そして世界的にもクラブミュージックブームが80年代中頃から後半にかけて盛り上がっていって、その流れと一緒にヒップホップが流行っていったんですよ。

――それから90年代に入り、1993年にヒップホップグループ・キングギドラを結成し、1995年にはデビューアルバム『空からの力』をリリース。こうして渋谷から日本のヒップホップシーンを牽引されていきましたが、いつから渋谷が日本のヒップホップの中心となったのでしょうか。

実は、80年代後半の渋谷はチーマーだらけで物騒だったんだよね。チーマー同士の喧嘩も多くて渋谷はだいぶ荒れていました。一段落ついたのがちょうど90年代で、その頃から急速に渋谷にヒップホップカルチャーが根付いてきた印象があります。

――なぜ、渋谷というまちにヒップホップカルチャーが急速に根付いていったのでしょうか。

とにかくレコード屋さんが渋谷に集中していたんですよ。一時期、東急ハンズの一角にはマンハッタンレコード、シスコレコードのようなヒップホップの音源を取り扱うレコード屋さんがたくさんあったので、世界でも有数のレコード屋のタウン(通称・レコ村) (註1)と言われていたぐらい栄えていました。海外から日本に来た人も、わざわざ渋谷のレコード屋さんに行って大量に買っていくぐらい特殊でしたね。そういう意味では、渋谷はヒップホップが根付く土壌に恵まれていたのかなと思います。

 夜に遊ぶ場所という点でも、クラブやディスコが特に多かったのは六本木と渋谷だったんですよ。ただ六本木はどちらかというとディスコが中心だったし、バブルの名残があったので単価も高くて、お客さんも綺麗めな格好をしていましたね。それに比べて渋谷は、よりカジュアルだったのでクラブが多くて。だからヒップホップは渋谷というまちに馴染んでいったのだと思います。

――90年代から日本のヒップホップシーンは渋谷を中心に進んでいきますが、当時の渋谷はどのようなまちでしたか。

まず、いまと当時ではヒップホップの在りかたが違っていたので、まちの在りかたもいまの渋谷とは相当違っていましたね。90年代の日本のヒップホップは、アメリカで始まったヒップホップをどれだけうまく日本にローカライズできるかを模索していた時期だったので、いまよりもっとコレクター気質があったんです。つまり、ヒップホップが好きであるということは情報を収集することだったんですよ。

昔は、なにより情報量がかなり少なかったので、ヒップホップが好きなやつなら週に一回はレコード屋さんに行かないと話にならなかった。特にレアものは三十枚しか入荷しないこともあるから、ゲトるには頻繁にレコード屋さんに通わないといけなかった。新譜が出たときも、その日に買わないと周りの話に乗り遅れてしまう。俺はそんな訳にはいかなかったので、大体週三ぐらいは通っていましたね。そういう事情だったので、俺のほかにもDJとかラッパーがよくレコード屋さんに買い物に来ていて、よくそいつらと会って情報交換をしていました。渋谷はまち自体が媒体だったのかなと思うし、俺らの世代にとってはとにかくヒップホップとは追いかけるものでしたね。

――渋谷自体がヒップホップを知るための媒体となっていたのですね。まちとカルチャーが密接に繋がっていて活気を感じますね。

「渋谷ってすげえエキサイティングな感じがするぜ!」と思わせるような雰囲気を自分たちでつくっていくような感覚もありました。レコ村には昼間でもヒップホップが好きなやつがいるから、用事がなくてもそいつらに会いに渋谷で集まるんですよ。俺なんかは自分たちで折りたたみの椅子とかを持っていって道に座りだすし、他のやつらもラジカセを持ってきたり、路上でテープを売ったりしていて。そうやってヒップホップが好きなやつらが渋谷に集まることで、自分たちで渋谷の空気をつくって目立とうとしていましたね。

――ただ現在は音楽との関わりかたはまちに繰り出さなくてもスマートフォンだけで完結できるようになり、ヒップホップの在りかたも当時とは大きく変わっていますよね。

いまは当時のような情報量云々ではなくて、単純に音楽を楽しめるようになりましたよね。追っかけるというよりは、SNSで簡単に情報を共有して自分の好きなジャンルの音楽を聴く時代。ヒップホップという音楽ジャンルも、ビルボードのトップ10のほとんどを占めることはよくあるし、そういう意味ではヒップホップは世界のポップスじゃないですか。つまり、もうどこにでもある音楽になったので、俺たちが路上でやっていた情報交換は、SNS上でやるようになっていった感覚があります。

 ヒップホップをさらに日本に浸透させるには、音楽業界を牛耳るような明らかなヒットチューンを個々のアーティストが出す必要があると言われてるけど、それぞれが自分の好きなジャンルだけを追うようになった現状だと、そもそもそういうヒットチューンを生み出すのは難しい時代になっているのかなと思いますね。ただ、当たり前のようにMステにラッパーが毎週一、二組出てくるような状況にはしたいし、個々がいろいろなことを試してみる時期なのかなと思います。