音楽には、言葉を介さずとも世界を映し出す不思議な力がある。作曲家は調やリズム、音色や強弱に思考を凝らし、演奏者はそれを受け取って音に変えていく。しかし同時に、音楽は言葉よりも曖昧で、一対一の意味を正確に伝えることはできない。演奏のたびに音は微かに揺れ、楽譜でさえ作曲家の思考のすべてを写すことはできないのだ。その不確かさの中で、音は静かに語り続ける。
現代音楽や熱帯音楽を手がける伊左治直氏にインタビューを行い、作曲のあり方、作品に文章を添える意味、そして演奏や解釈の揺らぎをどのように受け止めるかについて伺った。
音楽は作曲家と演奏者の間で揺れ、さらに聴衆の耳に届くことで形を変える。作曲し、演奏し、耳を澄ませることとは、揺れる音の行方に寄り添い、その微かな余白をともに見届ける体験なのである。
伊左治直
1968年生まれ。東京音楽大学大学院修了。西村朗、金澤正剛に師事。日本音楽コンクール1位、日本現代音楽協会作曲新人賞、芥川作曲賞、佐治敬三賞など受賞。現代音楽作品にとどまらず、調性的な小品も多く手がける。国内外の音楽祭に招待され、雅楽や声明、民謡、ポップスなど異なる要素を交差させた独自のスタイルで創作し、自ら出演することも多い。2018年「第三回 伊左治直 個展 ~南蛮劇場」で佐治敬三賞を受賞。近年は『紫御殿物語』『浮島神楽』など話題作を発表。2024年『とても短い』(原作・声:古川日出男、作画・監督:山村浩二)でロンドン国際アニメーション映画祭2024において、最優秀オリジナル・スコア賞を受賞。
ー作曲家を目指した経緯をお聞きします。
音楽は両親の影響で自然に始めました。子どもの頃からピアノを弾いていましたが、だんだんと作曲を好きになっていきました。中学の頃から作曲の勉強はしており、当時から音大に進むことも考えていましたが、高校時代は日本史や映画、アニメーションなどに興味がありました。ただ、いずれ作曲に向き合うことになるだろうという気はしていました。音大に入り、刺激的な友人たちと多く触れ合ったことが、本当の意味での作曲の始まりだったのではないかと思います。
ー現代音楽(註一)の作曲を手がけるようになったきっかけは何でしょうか。
今はかなり状況が違いますが、当時はとりあえず現代音楽を学ぶことが勉強の過程として必要でしたし、比較的普通のことでした。加えて、大学一年のときに八村義夫(註二)さんに大きな衝撃を受けました。また、杉山洋一(註三)さんや新垣隆(註四)さんといった友人たちの影響もあり、現代音楽という世界が見えてきたのだと思います。
ー現代音楽の解釈は難しいという印象を持たれがちですが、それについてどのように考えますか。
現代音楽が難しいと感じられる理由は、ハーモニーが掴みにくいという点や、美術のように共通の視覚的基盤がなく、他者と同じ体験を共有しているという確信が得にくい点にあるのかもしれません。
ーどのような方法で作曲されているのでしょうか。
僕の場合は、最初にその曲が演奏されている状況が思い浮かびます。特定の演奏会の会場や、演奏している人の姿をイメージすることが多いです。例えば『熱帯伯爵』を書いたときには、「これはギタリストの鈴木大介(註五)さんにお願いしよう」と考えていました。僕はもともと実際にピアノでボサノバ(註六)の曲を演奏していたことがあります。この頃はアグスティン・バリオス(註七)の曲などもよく聴いていて、とてもいい音楽だと感じていました。そうした背景があって、鈴木さんと一緒に熱帯から着想を得た音楽を演奏するイメージが立ち上がってきたんです。その後は、どこかを旅してそこで聴いた音を思い出しながらイメージを膨らませる、そういう物語のつくり方をしています。つまり「ゼロから書く」というよりも、「旅先で聴いた熱帯伯爵の音を再コピーする」ような感覚で、そこに自分の作曲を重ねていく。そうした設定をつくることで、だんだん物語と音楽とが同期していきます。だから「あれは演奏家が僕の曲をただ弾いている」というよりも、むしろ一種の劇中劇のようなもので、「熱帯伯爵が演奏していた場面」を、その演奏家が舞台の一部として再現しているような感覚なんです。そのように自分の中で作っていくのがとても好きです。
文学にも似た楽しさがありますね。ただ、音楽というのはどうしても曖昧さを含んでしまう。文学だと、ある程度きちんとまとめる必要がありますけど、音楽の場合は、まとまり切っていなくても成立する。けれど、それが逆にありがたい点でもあるんです。「文字で書くよりも、もっと自由な表現ができる」という感覚がある。そういうところに惹かれています。
ー「何かを伝えるために作曲する」ということはありますか。例えば、夕日を見て美しいと感じ、その感情を聴き手に伝えたいというような動機で作曲することはあるのでしょうか。
「熱帯伯爵の音を再コピーする」という話にも繋がるんですけど、例えば、夕日そのものを伝えるというのとは、厳密には違う気がします。むしろ「夕日を見て自分がどう思ったのか」を伝えたい、ということではないかと思うんです。もちろん、誰か特定の人に向けて伝えたいという場合も、そうでない場合もあるかもしれません。でも夕日を見て「自然ってこんなにすごいものなんだ」と感じたときには、やっぱり誰かにそれを伝えたくなるんだと思います。ちょっと極端な例ですけど、SNSで「このお菓子すごくおいしかった!」って思わず紹介したくなることってありますよね。あれも同じで、人間ってやっぱり、何かに感動したら「これを誰かに伝えたい」と考えると思うんです。
ー作曲する際に、困難や違和感を感じることはありますか。
困難はありますね。例えば音にするときです。単純な例で言うと「この景色はすごくいいな」と思って、友達に「あの景色はすごく良いよ」って伝えるとしますよね。でも、それをより正確に伝えようと思うと、ただ「美しい」という言葉だけでは足りなくて、「どんなふうに美しいのか」ともっと言葉を絞って吟味する必要が出てきます。作曲も似ていると思うんです。漠然としたイメージをそのまま伝えるのではなく、もっと精密にしていく。その過程で良くなっていくことが多いですね。また、作曲するときに、ちょっと「嘘」が入りそうになる怖さがあるんです。例えば音楽の流れとして、クライマックスを作った方がいい場面がある。でもそうすると、もともとの感情から少しずつずれていくこともある。そういうときは「本来の感情」と「作品としての形」、どちらを優先するかを考えながら進めるんです。
ー作曲家をしていて喜びを感じることは何ですか。
昨年、古川日出男(註八)さんが原作と朗読を手がけ、山村浩二(註九)さんが監督を務めた短編アニメーション『とても短い』の音楽を担当しました。どういう音楽を入れるかによって朗読の声が美しい響きにもなれば、静かに胸に染みるものにもなる。そこにどんな揺らぎが生まれるのか、作品を書くときは本当に怖かったです。言葉と音楽をどう関係づけるか、すごく考えさせられました。この作品はカンヌ監督週間(註十)2024で上映され、その後、どこでやったのか分からないくらいいろいろな場所で上映されました。メールで上映場所のお知らせをいただくんですけど、数が多すぎて把握できないほどです。作品は多くの賞を受賞したので、面白いと思ってくれる人たちが多くいたんだなと実感しました。ロンドンで音楽賞をいただいた時は、受賞の理由が明確に文章で示されていたので、自分の意図が伝わっているとわかって本当に嬉しかったです。ただ単に賞をもらった喜びだけではなくて、「ちゃんと意味が伝わった」という嬉しさがあったんです。ドイツでも現代詩の賞をいただいたのですが、そこでも理由に「言葉だけでなく、音楽を含めた作品全体として評価する」とあり、詩と音楽を結びつけた自分の試みが、しっかり受け止められているんだと感じました。もちろん、どこかで分かってもらえないこともあるとは思います。でも一方で、きちんと分かってくれる人もいる。世の中、捨てたもんじゃないなと。そう思えることが、作曲家として生きていく上での希望になります。
ー『熱帯伯爵』には一篇の文章が添えられていますが、なぜプログラムに文章を添えたのでしょうか。
最近、曲目解説ってやっぱり必要だなと思います。もちろん読まない人も多いし、僕自身も読まないことがある。だから「絶対に読んでほしい」と前提にしているわけではないんですが、想像のちょっとしたきっかけになればいいと思うんです。書き方も人によっていろいろあります。僕の場合は、意図してかなり抽象的なことを書いていて、具体的な構造とか歴史的背景にはあまり触れませんが、作曲家のなかには論文のように丁寧に曲の背景を書いてくれる人もいます。その文章を読んで「なるほど、こういうことか」と気づくことで音楽が面白く感じられることもあると思います。
聴くという体験自体、人それぞれ違うんです。単純に感動する人もいれば、別の意味を見出す人もいる。その入口として「ちょっとしたきっかけ」があった方がいいと思うんです。例えば「熱帯伯爵」という言葉ひとつでも、人は何かを想像しますよね。たとえそれが作曲者の意図と全く違っていても、「伯爵」という言葉から古い時代を思い浮かべたり、別のイメージに広がったりする。そういうきっかけがあれば、聴き方や感じ方も変わっていくと思うんです。だから、文章を添えることで名前をつけるのと同じように、音楽に対する想像の入口を用意しているという感覚です。でも、必ずしも聴いている人のためだけに作るものでもないんです。結局、自分が思っていることって相手にはそんなに伝わらないですよね。だから、一応自分はこう思っているけれど、相手のほうでは相手なりにやりたいようにやってくれればいい、というところもあるんだと思います。ですから、できることは精一杯やってみるけれど、つまらなかったらそれはしょうがないな、という気持ちもどこかにあるんです。すごく冷めているように聞こえてしまうかもしれませんが、むしろ、聴き手に依存しすぎないようにする、という感覚なのかもしれません。
ーご自身の音楽が、聴き手や演奏者に受け止められるときに生じる解釈の違いについて、どのように考えていますか。
聴き手との間で生じる解釈の違いですが、ほとんど現代音楽を聴いたことのない人ばかりの場で、自分の曲が一曲だけ演奏されるときは、やっぱり強くアウェイを意識します。「多分批判されるだろうな」と、どうしても感じてしまうんです。だから、演奏前に曲について聴き手に話す機会があるときには少しでも引き込もうとしますが、実際にはバッシングまではいかなくても、否定的な反応を受けることはあります。自分の思っていることを理解してくれる人が多ければ嬉しいけれど、現実には難しいですよね。作曲に限ったことではなく、人間同士のつながりと同じで、完全に理解し合えることなんてまずないと思うんです。恋人でも友達でも絶対に許せない部分があったり、話し合ってもどうにもならないことがある。背景や価値観が人それぞれ違うからこそ揺らぎは起きることで、音楽の場合であっても当然のことです。
演奏家との間に生じる解釈の違いですが、例えば、普段使わない特殊奏法をお願いすると、本当に嫌がられることがあります。演奏家から作曲家に「俺たちはまっすぐ音を出すように習っているのに、こんな曲がった音を出させるなんて」と言われたこともありました。そういった摩擦はありますけど、同時に演奏家とのやり取りから気づくことも多いんです。作曲家は曲を細部まで理解しているので「ここは絶対にこう弾いてほしい」という強い意思も持ちます。しかし、演奏家は演奏家で「楽譜にはこう弾いてほしいと指示があるけれど、このように弾いたほうが良いのではないか」と思うこともある。そうしたズレをすり合わせることで、作曲家自身も気づかなかった新しい解釈が生まれることがあります。
また逆に、演奏家が「なるべく作曲家の世界を再現したい」と言ってくれる場合には、「もし私が死んでしまい解釈を伝えられない時には、あなたはどう演奏しますか?」と尋ねることもあります。そうすると演奏家は自分で責任を背負うことになる。そこからまた新しい音楽が生まれるような気がするんです。
ー作曲家と演奏者の間で生じる解釈の違いについて実際にどのような例があったかお聞きかせください。
僕がエドナ・ミレイという詩人の作品をもとに曲を書いたときの出来事が印象に残っています。その詩は、「私のロウソクは両端から燃えている一晩も持たないだろうああ、私の敵よ、そして、ああ、私の友人よそれは素敵な光を与える!」というものです。要するに、自分の人生は長くはない、けれどそれゆえに、私の敵も味方も、ともに人生を照らしてくれるという詩です。僕はこの詩からバラード(註十一)のような綺麗な曲を書いたんですが、楽譜にメロディーとコードネームだけしか残さなかったんですね。すると、知り合いの演奏家が、なんとサルサ(註十二)で演奏したんです。僕は当然バラード風に演奏すると思っていたので、本番を聴いて本当に驚きました。しかし、そのサルサ版は僕には絶対に書けないような音楽になっていて、自分の手を離れた新しい可能性を感じました。それがすごく嬉しかったんです。もちろん、そういう自由な解釈を「許せない」と思う人もいるかもしれません。でも僕は、演奏家が本気で「これがこの曲だ」と信じて演奏しているなら、それは全然アリだと思うんです。
ーご自身が作曲した作品を、あえて自分ではなく他者に演奏してもらうことにどのような意味や価値があるとお考えでしょうか。
もちろん自分が演奏できるのであれば、自分で弾くほうがいい、ということはあると思います。ただ、必ずしも自分の演奏家としての性質が、自分の作品の世界観にぴったり合うとは限らないんですよね。だから、「自分でもできるけど、あえてこの人にお願いしたほうがいい」とか、「この人はすごく上手いけれど、この作品には別の人のほうが合うんじゃないか」と思うことはあります。そういう「人との出会いや交わり」の中で音楽を作る、というのが自分にとって一番しっくりくるあり方かもしれません。
ー作曲家、演奏家、聴き手の関わりの中で生まれる音楽の揺らぎについてどのように考えますか。
僕は音楽作品について、「こうでなければならない」という強いイメージを持っていない場合のほうが多いです。むしろ、自分がどんな立ち位置で作品を見ているのかを確認することで、少しずつ自分の中の世界観が見えてくる、そんな感じだと思います。
音楽作品は、クラシック音楽でも現代音楽でも、あるいはもっと別のジャンルであっても、「これが正解だ」と定義づけできない揺らぎのある状態のほうが望ましい。世界にはいろんな形があったほうがいいと思います。今は文化の幅が狭まってきているような危機感もあります。制限が多くなっているせいか、「多様性」と言いつつも、受け止める余裕が減ってきているように感じます。だからこそ、自分としては、全然違うものに対しても余裕を持って受け止められる世界であってほしいと思います。

