人々が芸術に心を動かされるのは、きっとそこに幽霊を見るからだ。作品には、その作家にしか表せない情景や筆致、色彩がある。私たちはそこから、時に意識的に、時に無意識に画家の姿を垣間見る。そして、その作品の背景を知ったとき、作家と私たちを隔てる長い時間を越えて、たしかに存在した彼らの生き様を、より深く想像することができる。今回お話を伺ったのはキュレーターの林綾野さんだ。彼女はこれまで、作品から画家の人生や生活を深く見つめ、研究し、それを伝える活動をしてきた。彼女が手掛けた展覧会からは、作品に込められた物語が伝わってくる。そんな林さんに作家を知って鑑賞する面白さについて伺うとともに、画家フィンセント・ファン・ゴッホの作品をひも解いていく。
—現在の活動について教えてください。
キュレーターとして展覧会の企画・制作をしています。日本にはいろんな美術館があって、 美術館ごとにいろんな展覧会を開いていますよね。美術館によっては他の美術館と連携して展覧会をすることもあり、外部の人間を巻き込んで一緒に企画をすることもあります。私 もそうした形でいろいろな美術館で展覧会の企画をさせていただいています。
―アートに興味を持ったきっかけはなんですか。
私は子どもの頃から絵を見ることが好きで、作品には何か力があると無根拠に信じてい たんです。例えば西洋美術館に行ってモネやセザンヌの作品を見ると、きっとここには私の知らない世界があるんだ、と感じていました。その世界を生きた人たちが目の前にある作品 を作っていて、私が知らない世界を知るヒントがこの中に眠っているんだと思っていたん ですよね。そのヒントを見つけて作品の謎を解きたいという思いからアートに興味を持っ て、美術教育の勉強をするようになりました。
―キュレーションすることのやりがいはなんですか。
展示を生み出すためにはものすごくたくさんのプロセスがあります。例えば、どうしたら展示が面白く見えるか、新鮮に感じてもらえるかをものすごく考えたり。なかなか自分が納得するものができなくて、頭を抱えてしまうときもあります。だから考え方をリセットして、一から資料にあたり直して、新しい目でもう一度その作品を見る。そういうスクラップアン ドビルドを繰り返して展覧会を完成させていきます。そんなふうに試行錯誤の末に展覧会を開いて、見に来てくれた方々の様子を展示室で見ているときが一番充足感がありますね。 お客様が思いもよらないところで反応してくれていたり、何か感じたことを持って帰ってくれたりしている瞬間があると、本当に頑張ってよかったと思えます。
―キュレーターとして活動してきた中で、印象的だったことはありますか。
二〇二一年に立川のプレイミュージアムで「柚木沙弥郎 life・LIFE」という展覧会をやったんです。柚木沙弥郎さんは染色家で、今年の一月に百一歳で亡くなるまで現役で活動されていました。展覧会を開いたとき、柚木さんは九十九歳で会場に来ていただくのも大変だったんですが、展示を見て「あまりにも美しくて涙が出る」と言ってくださったんですよね。 柚木さんは幼少期の家族との思い出などをもとに絵本も作られていて、展覧会では絵本の原画と染色作品を主に紹介しました。柚木さんらしさを感じてもらうにはどんな展示がいいか考え、柚木さんの初期の絵本作品から、彼の生き生きとした創作の息吹を伝えることをテーマに、説明文を読んで頭で理解してもらうのではなく、心を開いて感じてもらうような構成にしたんです。それを見た柚木さんは、「これはもう僕の人生そのものだ。生まれたときから、父と遊んでもらった思い出から、バーッと僕の人生が連なってた」と言ってくださいました。展示の最後には「布の森」という布をたくさんかけた部屋を作ったんですよね。それに対して「布が踊ってた。もうダンスしてるよ」と。それはもうキュレーター冥利に尽きると、もう死んでもいいとその時は思いました。
―キュレーターとして活動する傍ら、芸術家たちの食を再現したレシピ本を出版していますが、食に注目しようと思ったきっかけは何ですか?
画家についての紹介や作品鑑賞についての講演会をやっていると「美術って難しそう」と か「絵を見るのは好きなんですけど詳しくないんです」と言う人がたくさんいます。芸術に 詳しくないと好きと言ってはいけないと思っている人がすごく多いんですよね。そんなふ うに芸術は敷居が高いと感じている人に向けて、そのハードルをぐっと下げて、気軽に手に 取れる美術書が作れたらいいなと思い、生活の身近にある「食」に注目しました。 もちろん全ての人が絵を見なきゃいけないとは思ってはいませんが、絵を見る喜びと出 会ったらすごくうまくいく人もいると思うんですよね。もしかしたら、すごく嫌なことがあって落ち込んでいても、美術館に行くという週末の楽しみができて、一週間を乗り越えられ るようになるかもれしれない。だから、少しでも多くの人にアートの楽しさを知ってもらい たいと思っています。
―その芸術家の食や生活は、作品とどのように関わっていますか?
食というテーマは、その画家の存在を身近に感じるためのサンプルなんですよね。その食 生活やライフスタイルを通して、画家も同じ人間なんだと感じてもらえればと思っている んです。 以前ある講演会で画家のフェルメールについて話したことがあります。すると、多くの人 はフェルメールがどこの国の人でいつ頃の人なのか、そんなに気にしてないんですよね。宇 宙人に近いような、遠いどこかの昔の人のように捉えられていると感じました。でもフェル メールは、大家族に囲まれながら、姑に気を遣ったり、借金をしたり、そんな生活苦の中で 絵を描いた人でした。そう考えると、その作品は自分とは関係ない天才が生み出した奇跡の ものではなくて、一人の人間として理想と努力を積み重ねた人が、世間の荒波に揉まれなが ら描いたものだと感じられると思います。そうすれば、私たちも同じ人間としてその可能性 を持っていることに希望を感じられるかもしれません。
―複製を展示することもありますが、実際、複製は原作と物質的には同じものです。
しかし、 その二つに同じ価値がつくことはありません。原作にしかない魅力や価値は何だと思いま すか? まず前提として複製画を通しての体験も非常に貴重な体験になると思います。作品を見 て、何か発見したことがあったり、自分が変わる契機になったり、その体験はそれが贋作だ ったからといって消えることではないはずです。その上で、やっぱり原作だけが持っている オーラはあると思います。本物の絵は画家がその目で見つめながら描き上げたそのものです。画家がその絵の前に立って、筆を握って絵の具を塗り、考えて見つめ続けたものです。 ああ、この絵はフェルメール自身が見て、こうしよう、ああしようと思いながら描いた絵な のだなあと感情移入してみる。そうやって思いを巡らして絵を見れば、画家と目線を重ね合 わせているようなそんな臨場感というか感覚が自分の中から湧き上がってきます。自分が そうやって意識することで、絵との距離、画家の存在感そのものがぎゅっと縮まるように思います。
―ここからは実際にゴッホの作品についてお話していきます。まずは『ジャガイモを食べる 人々』です。この作品からはどのようにゴッホの人生が垣間見えるのでしょうか。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》1885年/ゴッホ美術館
ゴッホ作品のイメージにある明るい色彩ではなく、暗い印象を受ける。
ゴッホは二十七歳から三十七歳で死ぬまで、十年間だけ絵描きだった人なんですよね。こ れはその初期の絵です。 ゴッホが最初に描いたのは炭鉱や農地で働く人たちでした。彼は敬虔なプロテスタント の家で育ったので、生きるために働き、その糧を得てまた生きていく、その姿こそが美しい と信じていました。そんな働く人たちの姿を描きたいという思いはゴッホの絵を描く最初 の動機でもあったんです。この作品では、農家の方々が自ら作ったジャガイモをふかして食 べている様子が、自分たちの労働の対価を得ている姿として描かれています。何度もスケッ チをして、気合いを入れて描いた初めての大作ですが、当時の画家仲間にはイマイチな反応 をされてものすごく傷ついたようです。 それから、ゴッホが憧れていたレンブラントなどの手法である光と影のコントラストを 取り入れています。手前の人は絵のセンターにいるのに後ろ姿で、影になっていますよね。 本来主役は真ん中で光を浴びているのがかつての絵の基本なんですが、この作品では斬新 な構図に挑戦しています。そして、人々の佇まいがちょっと硬いですよね。まだ描くことに 慣れてないなというのが分かると同時に、恐ろしいほど誠実に、働いて刻まれたしわまで実 直に描こうとする気負いが感じられます。
―その誠実さや実直さは部屋の中も細部にまで表れていますね 。
よく見ると、右上にぶら下がった木靴にスプーンが刺さっています。オランダではぬかる みで農耕するとき、レザーだと水がしみてしまうので、木の靴を履くんですよね。使い古し て履けなくなった木靴を再利用して、スプーン立てにしているんです。また、テーブルの右 にはコーヒーのような飲み物があります。でもコーヒーは高級品で、農家の方々が気軽に飲 むことはできませんし、夕食という寝る前の場面なので、そんなカフェインが強いものを飲 むのだろうかと疑問だったんです。それで現地に行って調べたところ、これはおそらく代替 コーヒーだろうという推測に至りました。オランダでは、チコリという野菜の根を乾燥させ て焙煎して粉にして、代替のコーヒーとして使用していたそうなんです。よく見ると質素な 暮らしぶりが細部まで書き込まれているんです。
―次に『ゴッホの椅子』という作品についてお伺いしたいです。こちらはいかがでしょうか?
フィンセント・ファン・ゴッホ 《ゴッホの椅子》1888年/ロンドンナショナルギャラリー
椅子は生活によくあるものだけど、どことなくパースが歪んでいて夢みたいな感覚。どこか不思議に感じる。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンの肘掛け椅子》1888年/ゴッホ美術館
彼は芸術家の共同体を作るという夢を実現させるために、「黄色い家」と呼ばれる家を借 りました。そしてそこに、これから集まるだろう仲間のための椅子を用意していたんです。 実際に家に来たのはゴーギャンだけでしたが。尊敬する先輩芸術家であるゴーギャンには、 豪華な肘掛けの椅子を用意していました。その椅子をゴーギャンの象徴のように描いたの が『ゴーギャンの肘掛け椅子』という作品です。対して『ゴッホの椅子』には、ゴッホ自身を連想 させる愛用のパイプと煙草の葉っぱも描かれていて、ほとんど自画像のつもりで描かれた と言われています。つまりこれらは対になっていて、ゴッホの自画像とゴーギャンの肖像画 とも言われているんですよね。 ゴッホとゴーギャンを対比するとさらに面白いことが見えてきます。ゴーギャンは象徴 主義的で想像を絵に描く人です。それに対して、ゴッホは実景に基づく人なんですよね。だ から基本的に、実際に麦畑の中で麦畑を描くように、モデルを前にして絵を描きます。こう いったふたりの違いを踏まえて、『ゴッホの椅子』は自然光の中で描き、『ゴーギャンの肘掛け椅子』 はろうそくの火のもとで描いています。自分たちの画風も絵に反映させているという意味でも肖像性が高いんです。
―左上には「Vincent」とサインがありますね。
この作品は、ゴッホがサインを入れた数少ない作品のうちの一つです。サインが書かれた 箱に入っている芽が吹いた玉ねぎには「力強い」という意味が込められていて、今、自分は生きてるんだということを表しているように見えます。 同じように玉ねぎを描いた作品が他にもあります。『タマネギの皿のある静物』という作品で、耳切り事件のあとに描かれたものです。この作品にもパイプが描かれています。ゴッホ は自分の耳を切ったあと、精神的にも社会的にももうダメだというところまで落ちるんで すが、それでもまだ僕はやれるぞというメッセージを込めてこの絵を描いたと言われてい ます。だから玉ねぎはまだ生き生きと芽を吹いているし、右の方には健康白書という健康の本が描かれているんです。
―『ジャガイモを食べる人々』とは違った、明るさや歪みが印象的です。
技術的には、青と黄色の補色に近いコントラストに、南仏ならではのレンガの赤味があって色のバランスも素晴らしいです。それから、全体的に歪んでいて、ちゃんとしたパースでほとんど描かれていません。その歪み方にもゴッホの天性の才能があると思います。何一つ正しく描かれてないけれど、確かにそれがそこにあるような存在を感じさせますね。 数多く残されたゴッホの手紙の中で私が 1 番心を打たれた一節があって、それは「死ぬ ときに自分が描いた絵、あの絵もこの絵も描いたっていう、その愛しい絵のことを思い出し て、幸福な気持ちで僕は死んでいくんだ」という言葉です。『ゴッホの椅子』を描いたとき、ゴッホは絶頂期にありました。本当に希望に溢れていて、私はこの手紙の言葉を思い出しました。その後、最終的には、ゴッホは幸福な気持ちでは死ななかったことを思うと、いたたまれない思いも駆け巡ります。
―最後に『種まく人』という作品ですが、これはどういった絵なのでしょうか。
フィンセント・ファン・ゴッホ《種蒔く人》1888年/クレラーミュラー美術館
明るい色彩や短い線で描いたようなタッチから、ゴッホらしさを強く感じる。
この作品には、何もない大地に種をまくことから生が始まるという思いが込められてい ます。実は、ゴッホが最も敬愛した画家の一人であるフランスの画家、ジャン・フランソワ・ ミレーが同じポーズの『種をまく人』を描いています。ミレー以前から農家で働く人たちの姿は数多く描かれてきましたが、ミレーは農民を崇高に描いた最初の画家で、ゴッホはそん なふうに美しく働く農民の姿を描きたいと思っていました。だから、ゴッホの『種まく人』 はミレーの『種まく人』とほとんど同じポーズを取っているんです。 ゴッホはアルルに来て南仏の太陽を受け、豊かな牧草地を前にして、種をまく人の姿を描 きたいという気持ちが爆発するんですね。明るい太陽が輝く中で種を蒔くことはゴッホに とっては人間が生きる姿の現れであり、ゴッホが描きたかったものを描いた作品のうちの ひとつだと思います。 また、平面的な画面作りなど、浮世絵の影響も感じられます。彼は浮世絵に強い憧れを持 っていました。真ん中にある丸い太陽はたしかに日本的なものを感じさせますよね。まとめると、この絵は彼が好きな要素が詰まっていると思うんです。ミレーや畑、太陽、日本の浮世絵。すごくゴッホらしい、彼の思いが結実した作品です。
―ここまで、ゴッホの生活や考え方と共に作品を見てきました。こんなふうに芸術家の人生 などを知った上で作品を鑑賞することには、どのような魅力があると思いますか。
その芸術家の人生を知ると、その絵の秀美に関係なく、一人の人間が成したことの痕跡を 感じることができます。例えばゴッホの作品を見ていると、働く人たちの姿を追い求めてい た中で生まれた彼なりの葛藤や思い、出会いなどが絵の中からあぶり出されてきます。彼の 思いを知りたいと意識することで、絵の素晴らしさと同時に絵を見ること自体の体験が深 まるように思います。 いつも思うことなんですが、自分から心を開いて何かを得ようと作品を見るかどうかで体験は全く違ってくると思うんですよね。話しかけたら話しかけた分だけ言葉が返ってくるのが芸術作品だと思います。―鑑賞者に芸術をどのように楽しんでほしいですか。
情報社会の現代では、たくさんの情報が与えられる分、自分や人の気持ちに向き合う時間 が少なくなっていると思うんですよね。そんな中で、誰かが作った作品を見ることを通して、 他者について知って、心を開いて自分で自由に感じる機会にしてもらえたら嬉しいですね。 芸術を鑑賞するとき、それは偶然与えられた機会ではなくて、作品の前に立って作品を 見ようという自分の意思があるんだと思います。多分それは、人が作ったものを見てみたいし、知ってみたいという思いや好奇心があるからではないかなと思うんです。芸術作品には分かりにくいものもたくさんあるからこそ、そこからもう少し踏み込んで、自由に想像を巡らせてみてください。「誰も気にしないかもしれないけど、ここが気になる」とか、「どうしてこういうふうに描いてあるんだ」とか、そんなふうに自分の心で自由に感じて、考える時間にしてもらえたらいいなと思います。
林綾野
キュレーター、アートライター。これまで印象派から近代芸術家まで数多くの展覧会を企画。現在、企画展「堀内誠一 絵の世界」が全国巡回中。またアートライターとして、芸術家に関する絵本や芸術家の生活や食について研究したレシピ本を出版している。主な著書に『ゴッホ 旅とレシピ』『ぼくはフィンセント・ファン・ゴッホ』(共に講談社)がある。