私たちは物語を通じて人間を理解する。見た目や行動、それまでのやり取りからその人について解釈して、まるで物語の登場人物かのようにキャラクター性を見出す。しかし人間はものすごく多面的な生き物で、解釈する過程で切り捨てられた側面や欲望があるはずだ。他者が自分の解釈から逸脱した場合、「らしくない」という評価を下したり、「失望した」と感じてしまったりしたことは誰にでもあるだろう。また、自分が自分に課した「らしさ」に縛られて、自分の行動が制限されてしまうこともある。物語を介さずに、相手そのもの、自分そのものを受け止めることはできないのだろうか。今回は京都を中心に活躍する三人組音楽ユニット・幽体コミュニケーションズの作詞作曲とボーカルを担当しているpayaさんにお話を伺った。物語が持つ暴力性に違和感を持ち続けながら表現活動に取り組んでいるpayaさんと考える、物語から自由になる方法とは。
paya
京都を中心に活動する3人組音楽ユニット・幽体コミュニケーションズの作詞作曲とボーカルを担当。フォークやヒップホップなど様々な要素を取り入れながら、独特の世界観を確立させている。同バンドは10月2日に新曲『hito』をデジタルリリース。
―簡単に自己紹介をお願いします。
幽体コミュニケーションズという名前で三人で音楽をやっていて、歌を書いたり、詩を書いたり、たまに歌ったりしています。
―音楽を始めたきっかけは何ですか。
姉が吹奏楽部にいて、体験入部に行ったときにすごくかっこいい先輩がいて、やってみたいなって思ったのが一番最初です。
自分で曲を作り始めたのは高校生のときくらいだったはずです。僕の高校の吹奏楽部は人数が少なかったので、たとえば五十人用の楽譜を三十人でやるってなったときに、足りない分の音を他の楽器で補ったり、逆に音を抜いたりとかしなくちゃいけなかったんですけど、そういう操作をしているうちに、音楽って操作性のあるものなんだなって気付き始めた。それなら自分でも一から作り始められるものなんじゃないかと。作品として残し始めたのは曲が先なんですけど、自分の中には詩作に対する心の動きも同時進行ぐらいであった気がしていて。吹奏楽は言葉のない音楽なんですけど、その言葉のない音楽とか音ってものを、部員に伝えようとしたときに、どのように言葉にすればいいかっていうことをすごく考えていて、音の持っているニュアンスとか、色とか匂いとかを言葉で表現しようとしていました。それが今になって思えば、詩を作ろうとする心の動きと全く一緒だったなと。
―幽体コミュニケーションズを始めたきっかけはなんですか。
やり始めたのは大学を卒業した後で、一緒にやっている子たちは後輩です。サークルが一緒だったんですけど、卒業生と在校生が混ざって演奏するイベントで一緒にやり始めたのがきっかけです。
―バンド名の由来はなんですか。
なんなんでしょうね。やっぱりこういうインタビューを受けるたびに決まって聞かれることではあって。一応もっともらしいことは、今まで言ってきたんですよね。たとえば、ジャンルとか固定観念みたいものに囚われずに表現活動をするために、幽体という言葉の自由さを借りてきたとか、あるいは複数人でやるもんなんで、コミュニケーションっていうのは本質的な部分になってくるんだろうなっていうところがあるからコミュニケーションという言葉をつけたとか。ただ実際のところはあんまり分かっていないんです。なんでこの名前なんだろうなみたいなことをずっと考えるために、表現活動をしている節もあって。
―幽体という言葉を気に入るようになったきっかけはありますか。
解釈の幅が広いなっていう感覚はある気がしますね。実は幽体コミュニケーションズを始める1年前ぐらいとかにソロで出してる作品とかでもすでに使い始めてはいて。
幽体っていう言葉には「体」って文字が入っていて、やっぱり人の枠から離れられないんだろうなっていうところが、割と好きなのかもしれません。
―自由を愛するなら、幽霊の方が断然自由ですもんね。
そうですね、もっと自由な概念ってあるはずなんですよ。それでも幽体にしてるのは、人間そのものに対する愛着はあるんだろうな、みたいな。
―曲の中では人間について歌うことが多いんでしょうか。
人間のことを考え始めたのは結構最近のことです。むしろ最初の頃は人間のことは全然考えていなかったですね。自分の掴んでいることとしては、人間から離れるために幽体という言葉を選んだんだろうと。実際、これまで書いた歌詞の中になかなか他人が出てこないっていうのはあって。「あなた」であったり「君」であったりみたいなことがなかなか出てこなくて。自然にやってると他人が出てこないっていうことに寂しさを覚えて、無理やり入れるみたいなこともしていたんです。なんだか寂しすぎて。
―これまでは寂しさから無理やり他者との関わりを取り入れようとしていたのが、自然と人間に関心が向くようになったという感じなんですか。
ここはなかなか難しいところではあるんですけど。何と説明すればいいんですかね。でもこの変化も、一つの季節の移り変わりみたいなもののような気はしていて。単純に今までの肌寒い冬が終わった、みたいなただそれだけのような。何かきっかけがあるわけじゃないんです。もっともらしい説明はやろうと思えばできる気はするんですけど、実際のところは、大したきっかけはなくて、ただ移り変わっただけなんです。だから、今後また戻る日もあるかもしれないなって。
―ありがとうございます。幽体という言葉に関してはいろいろ聞けたので、次は物語について改めて考えていきたいと思います。payaさんは以前他媒体において、すべての物事を解釈すること、すなわち物語に対して違和感を抱いているとおっしゃっていましたよね。
物語というものは、人間のすごく本質的な認知の構造のような気がしています。人間が記憶を整理する上で、取捨選択を絶対しているはずなんですよ。膨大な情報の中から一個一個選択して整理していって、世界をデフォルメ化して、自分なりの解釈を積み上げていって、その積み上げた解釈を基に、これからどうなるかなっていうことを、ある程度予測しながら生きていくみたいなことがあると思っています。それはそれで人間らしさみたいなことでもあるから、すごく大事なものではある気がしているんですけど、でもそれがなんかすごく暴力的に見えてしまうときもあるんです。たとえば物語を見ているときに、そこに出てくる登場人物たちっていうのが、物語を駆動させるためだけに配置されているような感覚がたまにあって。その登場人物たちは、自分たちを支配している大きな物語に気付くことはできない。物語のために泣いて、物語のために笑って、みたいな構造を見てしまうときがある。その裏側には、語られなかった人たちの泣いたり笑ったりもあるはずなんですけど、それはないことになってしまう。そこにすごく暴力的な構造を見てしまって、違和感を覚えていたりもしたんです。
―その違和感というのは、誰かを記号的に解釈するときに、見落とされてしまうものに対する意識から来るんでしょうか。
そうですね、そういうのもあります。映画とか漫画とか小説とかの登場人物のパーソナリティって1つに固定されていて、彼らは登場人物紹介に書かれているものから逃げることができない。そのパーソナリティが変わるには、僕らが納得できるようなきっかけが必ず必要になってきて、それなしでは人は性格を転換することができない。そういう物語への解釈の仕方とか見方みたいなものが人間の本質であるとすれば、それって単純に小説や映画の世界だけの話じゃなくて、僕らの日常生活の、現実の対人関係にも絶対に染みこんでくるものであるはずだなっていう感覚はあって。じゃあ僕らがなんか変化、脱却したいものがあったりしたときに、必ずきっかけが必要になるのかと思うと、すごく悲しくなるっていうか。
―自分を物語的に解釈することについてお話をしてみたいと思います。payaさんは「自分ってこういう人間のはず」とか、「こう思うはず」と思うことはありますか。
それはもちろんあります。表現活動をするときはすべからくそうな気はしていて。表現活動ってありのままの自分をそのまま表に出すことではなくて、自分をどのように表現したいかという話になってくる。そういう意味で、「自分はこういう人間」とかってところは、思考の中では介入してくるんですけど、結局のところ、それも含めてありのままになってくるんです。でもいずれにせよ、自分自身のことを、ある種一つの法則とか、一つのキャラクターみたいなものを想定することはあるなっていう。
―先ほどお話いただいたことと矛盾してしまうようですが、ここまでのインタビューを通して、payaさんは自分について因果を見出すことにとても慎重な方だと感じました。因果に対して一歩引いたスタンスを取っているのは、自覚的にそうしていらっしゃるんでしょうか。
なんなんだろうな。多分、因果みたいなものを見出してしまうと、この先の因果も決定させてしまう感じがするからかもしれないですね。自分が違う方向に行きたいと思ったときに、なんか動けなくなってしまいそうな気がしているから。だから、そういう意味では自覚的な部分はあって、違う方向に行こうとしたときに行けるようにっていう風にしている。一方で、やっぱり別の方向に動きたいときには、因果みたいなものはすごく強力なエンジンとして取り入れられる部分はあるので、そこは使い分けなんだろうなと思っています。
―payaさんはバンドを結成したり、曲の中にサンプリングを入れたり、他者の持つ要素を取り入れることに積極的ですよね。個人的にはその姿勢が、自分が自分に想定したキャラクターを超えることに役立つのではないかと思っているんですけど、そのあたりはどうでしょうか。
結構僕も好きな考えですね。確かにその通りで、僕がいま複数人でやっているのも、文脈をもっと広げるためなんです。表現自体を群像化させるというか。群像劇がすごく好きなんですよね。群像劇って、それぞれがそれぞれに従って動いているけれど、それぞれが微妙に繋がり合って、物語のように見えるものがなんとなく出来上がっていくっていうところがあって。そこにある道は、遠くから見ると一本のように見えるけど実際はそんなことはなくて、っていうところがきちんと織り込まれているものな気がしているので、群像っていうものが好きなんです。群像劇みたいな構造を、自分の表現に組み込んでいければいいんだろうなっていう。そこに複数人でやる意味があるんだろうな。僕がよく曲にサンプリングを入れるのも、文脈を広げたり、文脈の背骨を外したりっていう操作が好きなんだろうなという気がしています。
―文脈を広げるために複数人でやるという発想はとても新鮮ですね。幽体コミュニケーションズで活動する際に、メンバーの文脈を活かすために意識していることはありますか。
メンバーと演奏していると、一人ではこの音の構造にたどり着くことはなかっただろうな、という状態になることがよくあります。日ごとの気分や、体の状態、交わした会話、場所や天気、そこにいる人、それぞれの文脈によって微妙なニュアンスはいつも変わります。それが三人分あって、それぞれが演奏に還元された景色が音楽として鳴ることになる。そうした機微が入り込む余地を演奏全体の構成に組み込むことを忘れないようにしています。
それぞれの文脈を活かすには、他では代替不可能な音を見極めて選んでいく必要があると思います。それは一筋縄で行くものでもなく、曲や演奏を組み立てるときにはいつも多くの時間を費やしています。
―「ユ」という曲は立川吉笑さんという落語家の方の依頼で作られたと伺いました。他の人からの依頼で曲を作るときは、自分だけで曲を作るときとどういう違いがあるんでしょうか。
「ユ」を作るときに与えられてたお題って、ポップな感じでっていうただそれだけだったんで、結構好きにやらせてもらったんですよね、だから、自分のクリエイティブとさして違いもなかった感じはあるんです。
ただ曲を作る上で、吉笑さんの落語家としての表現からヒントを得た部分もたくさんあったんで、表現の源泉がまた一個増えた感じはしました。自分で表現するときとかって、自分の中にある要素、たとえば幽体という言葉から連想される言葉や音みたいなものをたくさん選択していくんですけど、 依頼された場合であれば、依頼してくれた人のクリエイティブから源泉を得て、言葉や音を選んだりってことがある気がしてます。
―ありがとうございます。次は自分が他者を解釈してしまうことについてお話していきたいと思います。先程、物語を見出すことは人間の認知の構造であるというお話をされていましたが、payaさんの中には物語を介さずに他の人を理解したいという欲求はあるんでしょうか。
それはすごくあります。それこそ、物語って「偏見」っていう言葉にも置き換えられそうなところがあると思います。そういうものに対してすごく強烈に嫌悪感を持っていた時期っていうのがあったんです。今はだいぶ落ち着いているので、物語が人間の本質的なものの見方であるみたいなことが言えるぐらいにはなって、自分もそうだっていうことが受け入れられるぐらいにはなっているんですけど、でも偏見や先入観みたいなものは一旦取り除いて他者と接したいなっていう思いはあります。ただそれって現実的にどういうものなのかっていうのは、全く想像ができてないというか。これまでのその人との文脈を全部一回取り外して、今この瞬間だけでその人を受け取るっていうのは全く意味が分からないなと。物語みたいな枠組みから外れて人と接したいっていうこの欲求は、 好奇心に近いかもしれないです。
―では他者から解釈されることについてはどうでしょう。他者から一方的に解釈されて、キャラクター性を求められる瞬間はありますか。またそういった他者からの要求に対してはどのようなスタンスで付き合っていらっしゃいますか。
人前に出る活動をしていると、そういうことはやっぱりあります。それに対して悪い印象はないです。自分の輪郭っていうのは自分の内側からは描けない感じがしていて、他者からの目線や言及があって初めて自分の輪郭が形作られるんです。そういう意味では、他者からの解釈は必要不可欠だと思う感覚はあります。一方で、そういう目線が嫌になるときがないと言ったら嘘になります。嫌になるっていうか、完全に自分が分からなくなるときがあるんですよね。別に僕も誰からも求められたくないわけじゃなくて、どちらかというと求められたいと思ってはいて、求めてくれる人が望む形になりたいと思う心の動きもある。でも果たしてその先に自分はいるのかどうかみたいなことも考え始めると、この輪郭はどこに行くんだろう、みたいなこととか、その形ってなんなんだろう、それが僕である必要があるのかみたいなことも考える。そこらへんはよく分からないところではあるんですけど、やはり面白いところでもあります。
―輪郭という要素はとても重要な気がします。自分が自分であるためにも、輪郭とか体とかは必要になるのかなと。
幽体コミュニケーションズってできるだけ自由でありたいっていうところはあるんですけど、その自由はなんでもいいよっていう自由ではなくて、ちゃんと自分で選べるっていう自由なんです。わざわざ輪郭を持とうとしてるのも、輪郭を明確に規定したい、輪郭の中に収める何かが欲しいっていうところは必ずあるような気がしています。
今回の、中心的なテーマの「物語」という話に引きつけて言うのであれば、物語っていうものの暴力性みたいなものに関しては、すごく抵抗感があるっていうのはそうなんですけど、そういうものの見方自体は人間のすごく本質的なものの見方なので、避けられないし、完全にそれが悪いものでもない。わざわざそれを捨てようとして悩む必要はないかなとは思うんです。でも少なくとも現実に生きている僕らは、創作の中の登場人物とは違うから、物語の構造みたいなものにちゃんと気付けて操作することのできる次元にいるんです。その辺をちゃんと把握した上で、自分が物語を操作していく感覚っていうものをなんとなく持ち続けながら生きていきたいんだろうなとは思います。