8月1日木曜日
改札にひっかかった。ICカードのチャージをし忘れていた。後ろに並んでいた人に舌打ちをされた。電車に乗ったあと、なんとなく人の顔を見たくなくて、寝たふりをした。
聞こえてきた泣き声が気になって目を開けた。向かい側に立っていた男の子が泣いていた。母親がなだめても、泣き声はどんどん大きくなっていく。すると、一人のスーツを着た男性が男の子に声をかけて立ち上がった。男の子は嬉しそうに空いた席に座った。母親は男性に何度も礼を言っていた。男性は恥ずかしそうに笑っていた。
なんだか心が動いた。席を譲ったあの人は、優しい気持ちで行動を起こした。私の心を動かしたのは、きっとこの優しさだ。「泣いている子供」「その母親」「座っている人たち」。ただの景色だと思っていた世界に、人のことを想像し、人の為に行動する優しさを持った人間がいた。その優しさを受け取り感謝する人間がいた。そこにいたのは、当たり前に、一人一人の人間だった。そのことに気づけたのがすごく嬉しい。気づけたのは、私も人間だからだ。人の優しさを想像し、見つけることができる人間だからだ。気づけてよかった。だけどきっと、今まで見逃してきた優しさがいっぱいあっただろう。人間なんて、とどこかで諦めていたのかもしれない。諦めておけば、優しくない人にがっかりすることもない。でもやっぱりそれって寂しい。私は人間を諦めたくないし、絶望もしたくない。優しさを見よう見ようとしてみよう。
8月2日金曜日
花火大会に行った。花火を待つ観覧席の横の階段に、1人でテントを運んでいる女性がいた。そこに男性がやってきた。その人はテントの片側を持ち、運ぶのを手伝った。一連の流れがあまりにスムーズだったので、2人は知り合いなのかと思ったが、テントを運び終わると男性は別の人と話しながら去っていってしまった。
全くの他人同士が優しさで交わった瞬間を見ることができた。それってなんかめっちゃ素敵!
そしてそれと同時に、周りにいるたくさんの人、人、人、人、その一人一人にそれぞれ違う人生があって、そんな別々の人間たちが集まって同じ花火を見ているということにすげえ!と感動した。人混みは苦手。嫌だけど、さっきの男性の優しさをみたことで、人混みはそれぞれの場所からそれぞれの経緯で花火を見に来たそれぞれの人生をもった人間の集まりだということを思い出した。そう思うと、もう文句を言う気にはなれなかった。
8月3日土曜日
ショッピングセンターにいたとき、スマートフォンをなくしたことに気づいた。心当たりのある場所を探しても、見つからなかったので、遺失物センターに行くことにした。受付の人に事情を説明すると、少し前にそれらしきものが届いているという。確認すると、それはやはり私のもので、無事に取り戻すことができた。
私は割と頻繁に物を失くすので、遺失物センターや交番に度々お世話になっている。そして結構な確率で、私のなくしものはそこに届けられている。しかし思い返してみると、届けてくれた人について考えたことはほとんどなかった気がする。失くしたものが見つかって、ツイてるー!くらいに思っていた。でも、私の失くしものがきちんと私の元に帰ってきたのは、私がツイてるからではなく、誰かが拾って届けてくれたからだ。落とし物を拾って、それを届ける。考えてみるとなかなかにめんどくさい。なのに顔も知らない他人のためにそれができる人は間違いなく優しい。私は今日だけでなく、何度も知らない誰かの優しさに助けられていたのだ!直接言えないのは残念だけど、改めて、ありがとうございます。
8月5日月曜日
夜の電車で、眠っている男性の指から指輪が落ちた。それを見た向かい側に座っていたおじさんが指輪を拾って、眠っている男性に声をかけた。しかし、男性の反応はない。肩を叩かれても下を向いたままだ。足元にお酒の缶が置いてあったので、恐らく酔っていたのだろう。おじさんは「仕方ねえなあ」と言いながら、男性のバッグのポケットに指輪を入れてあげた。そして「気いつけて帰れよ」と言いながらもう一度男性の肩をポンと叩き、次の駅で降りた。
男性はずっとほとんど意識がない様子だった。きっとあの優しかっけえおじさんの記憶は男性の中に残らないだろう。だけどせめて、バッグのポケットに入っている指輪を見たとき、誰かが拾ってくれたのかなと思ってくれたらいいな。優しさを想像してくれたらいいな。そしておじさん、私はあなたの優しさちゃんと見てたよ!覚えてるよ!
8月8日木曜日
駅の階段で、女性が小さな子どもを抱えながらベビーカーを運んでいた。それを見かねて、通りかかったおばさんが一緒に運ぶのを手伝った。それでも、子どもを抱えていながらだったからかなり大変そう。その様子を少し上で見ていた私は二人に駆け寄って声をかけ、母親に代わってベビーカーを下まで運んだ。
めちゃめちゃ感謝された。もちろんおばさんと私両方にだが、大袈裟なくらい礼を言われ、私はおばさんに便乗しただけなのに、と少し申し訳ない気持ちになった。
でも電車に揺られながら、それも違うよなと思い直した。確かに私が助けに入ったのはおばさんへの便乗で、一人だったら助けていなかったかもしれない。だけどそれは私の優しさを否定する理由にはならない。あのとき私の中には、確かに「大変そう、助けよう」という優しさがあった。そして、あれだけ感謝されたということは、ちゃんと私の優しさは優しさとして届いたということだ。私は感謝されていいし、その人の感謝を素直に受け入れるべきだと思う。
あの人が、今日のことを覚えてくれてるといいなと思った。私とおばさんの優しさが、あの人の中で生き続けていたらすごく嬉しい。
8月14日水曜日
ここ数日、優しさを見つけられていない。優しさセンサーを張り巡らせているつもりなのだけど、見つからない。もしかしてやっぱり人間そんなに優しくないのでは?と思えてくる。
優しさを見ようと決めてから、困ったことがある。人の「優しくなさ」がやけに目についてしまうことだ。人に優しさを期待しているために、優しくない瞬間に出くわすと裏切られたように感じる。優しくなくされたとき、ああこの人の中で私は景色なのだと悲しくなる。ほらね、人間の優しさなんて諦めておけばよかったのに、とまで考えてしまう。優しさを見つけられない、優しさを受け入れられない、優しくなれない。そんなふうに優しさに臆病になってしまうのは、期待して裏切られるのが怖いからなのかもしれない。
8月15日木曜日
エレベーターで配達業者の人と入れ違いになった。私が自転車を押しているのに気づいたその人はさっと外に出て、私がエレベーターに乗り込むのを助けるために開けるボタンを押してくれた。全くそんなことを予想してなかった私は、驚いたのと嬉しいのとありがたいのとで「ありがとうございます!」と大声で感謝していた。ほとんど叫んでいたと思う。その人は私のいきなりのそんな行動に驚いた顔をしていた。もしかしたらちょっと引いていたかもしれない。私も冷静になると恥ずかしくなって、急いでエレベーターに乗った。
何も叫ぶことはなかったと思うけど、その分私の感謝は十分に伝わったと思う。恥ずかしい思いをしても、感謝が伝わらないよりはずっといい。あなたの優しさに私が助けられたこと、伝わっていて欲しい。
8月20日火曜日
風邪を引いたのでマスクをしてバイトに行った。喉が痛くて声が出ず、小さな声で接客していた。
ふと、なんか今日お客さん感じ悪くない?と思った。いつもなら笑顔で商品を受け取ってくれたり、ありがとうございますと声をかけてくれたり、優しい対応をしてくれる人が多いのだが、今日はほとんどいない。大体が無表情で、お金を払ってさっさと立ち去ってしまう。
しばらく考えて、私のせいなんじゃないかと気づいた。声低いし小さいし、マスクで表情も見えない。こりゃ確かにいい気はしないだろう。
そう気づいてからはなるべく目で笑うことを意識するようにした。オーバーなくらい目元をにこっとした。そのかいあってか気のせいか、その後はお客さんに感じ悪いと思うことはなかった。
お客さんに冷たい対応をされる度、この人にとって私は景色なんだなあとちょっと悲しくなっていたのだけど、もしかしたらこちらのやりよう次第で人間になれるのかもしれない。優しい人には優しくしたいし優しくない人には優しくしたくない。考えてみれば私もそうだ。自分の優しさは、正しく受け取ってくれそうな人にあげたい。
私が優しくないと思ったあの人たちは”本物優しくない人”ではなく、”優しくないと優しくない人”だったということがわかって良かった。優しい人にはちゃんと優しい人かもしれないと思えるだけでかなり救いだ。
8月23日金曜日
駅で電車を待っていると、辺りを見回しながら歩いているおじいさんがいた。おじいさんは近くにいた人に声をかけ何か尋ねた。話しかけられたのは、金髪で服装も派手なちょっと怖い見た目の女の人。冷たくあしらわれないかソワソワしながら見ていた。しかし私の心配をよそに、その女の人は笑顔でおじいさんに答えていた。
人間は優しいとか言いながら、見た目だけで優しい人優しくない人を決めつけている自分に気づいた。なんでもっと優しそうな人に話しかけないんだろうと思っていた自分が恥ずかしい。見た目が派手な人は怖いという根拠のない固定観念にいつのまにか囚われていた。そのことに気づかせてくれたあのおじいさんと金髪お姉さんに感謝したい。
8月25日日曜日
連日の雨で気分が下がり何もやる気が起きない。友人との約束も面倒くさくて断ってしまった。雨の中家に一人でいると、自分のせいなのに寂しくなってきた。スマホを触っても、特にみるものもないし連絡を取る人もいない。私のことなんてみんなどうでも良いんでしょ!ふん!やけくそな気持ちになってくる。そんな調子でいると、スマホの通知が鳴った。誰からだろう。少し期待して画面を見ると、フリマアプリからだった。なんだアプリかとガッカリ。
私が売った商品が受け取り完了されたという通知。開くと、買い手からメッセージが届いていた。
「商品届きました!めっちゃいいですね、もっと早く買えばよかった(笑)綺麗に包んでくれててありがとうございます(^^)大事に使います!!」
こんな丁寧なメッセージは初めてだったので驚いた。そして嬉しかった。
これまで私がしたことのあるやり取りは、テンプレートの文章を送り合うだけ。売り手と買い手の必要最低限のやり取りだ。でも今回のメッセージは人間が人間に送った文章だと感じた。それが嬉しかったのだ。大袈裟かもしれないが、私が今生きているということを顔の見えないこの人は知っているということが心強かった。私も今度は顔文字くらいはつけてみようかと思った。
8月26日月曜日
風邪と雨で体調が悪い上、席にも座れず最低の気分で電車に揺られていた。表参道に到着したとき、席が一つ空いた。私と、私の横に立っている人とのちょうど間にある席だ。今思えば、隣の人を気遣うべきだったと思う。譲らないにしても、「いいですか?」と目配せくらいするべきだった。しかしその時の私はとにかく座りたい一心で、席が空いた瞬間すぐに座ってしまった。
冷静になってから後悔したがもう遅い。座っている私の目の前には隣にいた人が立っている。顔を上げることができなかった。私はあの人の中で優しくない人になってしまったと思った。うつむきながら、以前何かの本で読んだ「善人も悪人もいない。美しい瞬間と醜い瞬間があるだけ。」という言葉を思い出した。優しさにも同じことが言えるんじゃないだろうか。さっきのあの瞬間、私は確かに優しくなかった。だからといって私が優しくない人間になってしまったかというとそうではない。私には優しくない瞬間もあれば優しい瞬間だってある。優しくなかった自分を肯定するわけではないが、あの一瞬だけで優しくないやつ認定されるのは悲しい。
24時間、出会う人全てに優しくできたらそれは素晴らしいけど、多分無理。優しくできない瞬間は誰にでもある。優しくない瞬間に出会ったとき、それでもその人を人間として見て、見えない優しさを想像することができれば、自分のことも他人のことも嫌わずに済むのかもしれない。
8月31日土曜日
電車に杖をついたおばあさんが乗ってきた。空いている席を探してきょろきょろしているところに、制服を着た女の子が声をかけて席を譲った。譲られたおばあさんも譲った女の子もニコニコしていて関係ない私もつい微笑んでしまいそうになった。
ふとおばあさんの隣に座っている男性が目に入った。スーツを着たその人は心なしか居心地の悪そうな、気まずそうな表情に見えた。もしかして、この人も席を譲ろうとしたのかな。それか、譲れなかったことを反省しているのかな。どちらも私の勘違いかもしれない。でも私はそうだと思うことにした。あなたの優しさ、私は知ってますよ。そう心の中で声をかけた。
さらに隣の人に目を移す。スマホを触っている私と同い年くらいの女の人。我関せずという顔をしているが、目の前にさっきのおばあさんが来たら案外席を譲ったりするのかもしれない。
私が今見えている世界。そこにいる優しい人は席を譲った人その一人だけだ。だけど、一見優しくないひとりひとりの優しさを想像することはできる。優しさを見ようとすること。それと同じくらい大切なのは、見えない優しさを想像することなのかもしれない。見えなくても、人の優しさを想像してみる。優しさがあると信じてみる。そうやって、優しいかもしれない人の中で生きるのはただの他人の中で生きるよりもちょっと楽しそうで、そんな世界でなら私も今よりちょっと優しくなれるような、そんな気がしている。