我々は過去の人々に個人や人格といったものを見出すことは難しい。そして、我々もいずれ未来の人々からは個人ではなく、単なる記録や情報として認識されるようになる。それは恐ろしい事象だが、受け入れるよりほかない。だけど、個人や人格を持った人々がいたという事実は忘れたくない。
歴史創作というものがある。記録的事実と創作した記憶を合わせたものだ。そこで織りなされる物語は本物ではない。されど、それは我々に過去に人間がいたという事実を想起させるかもしれない。本記事では、古今東西の様々な題材を用いて歴史創作を行っている漫画家トマトスープさんにインタビューを行い、歴史創作への姿勢や考え方を伺った。
〈トマトスープ〉
漫画家。主に歴史漫画を創作している。『天幕のジャードゥーガル』をSouffle、『奸臣スムバト』をWINGSにて連載中。『天幕のジャードゥーガル』にて『このマンガがすごい!2023』オンナ編 一位。完結作として『ダンピアのおいしい冒険』がある。
——なぜ歴史創作を始めようと思いましたか。
最初は趣味で始めたものでした。もともと歴史上の人たちが好きなように解釈されている創作物を見るのが好きだったんです。その表現の多様さに引かれたところがあって、自分でも大学生くらいのところにやってみたいなと思って始めました。
——歴史創作を始める前と後で、 歴史に対する姿勢にはどのような変化がありましたか。
表現するようになってとにかく調べるようになりましたね。それによって歴史の解像度がどんどん上がっていって、価値観も変わりましたし世界観が広がりました。自主的に表現しようというものがなかったらそもそも調べなかったかもしれないというところがあるので。
——『天幕のジャードゥーガル』内において、なぜファーティマ=ハートゥーンについて取り上げようと思いましたか。
元々モンゴル帝国の歴史について調べることが結構好きだったんですけれど、その中でファーティマという人は、ドレゲネという人と一緒に悪役として叙述されることが多い。そういう人に結構興味がありまして、どういう人生を歩んで来たのかなっていうのを想像したくなって、調べていたところがあります。それに加えて、ファーティマのバックグラウンドのイスラム圏出身であるということが十三世紀という時代をより広く表現できるポジションにいてくれるという点も含めて、 今回はファーティマにスポットを当てることにしました。
——トマトスープ様にとっての十三世紀という時代についてのイメージについて教えてください。
文化的な交流が生まれ、新時代の始まりの世紀であると考えています。 私が知っているのはユーラシアのモンゴル帝国の時代だけなので他の地域については語ることができないんですけれど、広大なモンゴル帝国で、多様なバックグラウンドを持った人たち同士の交流が深まった時代であり、 一方でモンゴル帝国による様々な破壊もあった侵攻の時代でもあると考えています。
——様々な文化が混在する時代の描写の難しさとは何ですか。
やはりいろんなことを調べなければならないので、単純に知識を豊富に揃えなければ描けないという苦労はあります。あとは宗教的な背景もありますね。信仰がとても強い時代ですので、今の我々、特に日本の現代人とは結構感覚が違う信仰心を持っている。さらにキリスト教徒でしたりイスラム教徒でしたりシャーマニズムにしろ、 様々な文脈の違う信仰を持っている人たちですので、 どういう心情になるかっていうのがなかなか想像しがたいところがあります。我々とは感覚がだいぶ違う。一方で表現として読者の方々に共感していただきたい。そのバランスをどうやって取っていったらいいのかというのが結構難しいところだと感じています。
——モンゴルが帝国として持つ寛容さと侵略をして領土を広げていった帝国としての残虐さ。この2つの描写のバランスについて何か気をつけていることはありますか。
どちらも一側面だけで語らないことに気を付けています。この時代は文化的な交流も盛んに行われましたよね。今私たちが立っている時代はその後に作られたものですので、やはり巨人の肩の上にいる小人の状態であるという意識は持っていたいです。 一方で、その時代に生まれた文化的な交流を絶対的に賛美してはいけないなとも思っています。その背景にはやはり破壊されて殺されていった人たちもいたわけで、 どちらにも目を向けられるように気を付けています。
——他に、歴史創作において注意している点を教えてください。
フィクションとノンフィクションのバランスをどのように取るのかが難しいところですね。わからないところは当然フィクションで埋めないといけないですし、フィクションにするにしても面白くなければいけないし必然性も持たなければならないと考えていますね。例えば何らかの要因で死んでしまって退場するような人がいたとしても、 その退場の理由をフィクションの中では作らないといけなかったり、そこを一つの物語にするために構成要素として組み込まなければならなかったりする。フィクションに振るか、それとも史実の通りに行くかというバランスをその都度考えながら書いているので、そこが難しさです。
——肖像画などをどのように漫画に落とし込んで描写しているのか、なにか難しさはありますか。
そもそも昔の時代の特徴として、みんな部族ごとに髪型や着るものが決まっていたりして、 描き分けが基本的に難しいと思っています。でも、漫画的にキャラクターとしての記号的な部分を出さなければならないので、どうしてもそこは苦労します。特に、髪や目の色というものが、基本的に漫画だと自由に描けるんですけれど自由すぎてもいけない。特に『天幕のジャードゥーガル』においては、中央アジアの方の人たちやモンゴルの人たちとかのバックグラウンドのある人たちがある程度その背景をわかるように描きたいと思っていたので、頑張って記号化して、できるだけ読む方にストレスのないように気をつけています。
——資料集めにおいて、何か印象的だった苦労はありますか。
見つからなかった時ですね。こういう話にしたいなと思って、調べた結果私が思い描いたような意味ではなかったということがよくあります。けれどぴったり当たる時もあって、例えば第六話の長春真人が出てくる話は資料が手元になくて、弟子が書いた日記があるんですけれど、なにかヒントになるんじゃないかという期待を込めて注文しました。でも、締め切りが迫ってきますので結局届いても使えるエピソードがなかったら終わりだっていう時がありました。届いたら狙い通り日食の話があって、 なんとか今の六話の形に仕上げることができました。時々そういうミラクルも起こるのでそれが楽しいところでもあり、苦労でもありという感じです。
——資料というものは個人の性格などが出づらいと思うのですが、資料上の人物をどのようにキャラクタナイズしていますか。
性格などについてはもう割り切ってお話に必要な形にしようという意志を持って書いております。これは最近気づいたことなんですけれど、 いつの間にか私自身のウィキペディアの記事などができてたんです。内容を見ると、嘘は書いてないけど本当のことでもない。結局誰か過去の人について叙述するということはこういうことなんだな、どこまでいってもその人の真の姿には触れられないものなんだなと思いました。だったら、お話を作る方はお話に振って必要な形に揃えようと割り切ることにしました。
——資料上では捉えきれない人物同士の関係性はどのように見出していますか。
資料の中に仲が良かったとか書かれている人についてはやはり親しい人物として書こうと思うんですけれど、 一方で決別したりとか仲が悪かったりすることがある場合は、よりお話としてドラマチックにするためにいったん仲の良い時期を用意したり、その後の展開を盛り上げる前提をフィクションで作ったりとか、そういうことを結構しております。
——資料を集めて作品を作る上で、 トマトスープ様の中でのファーティマ=ハートゥーン像というのはどのように変化しましたか。
あまり資料を集めてどうこうっていうほどのことはないんですけれど、 昔はファーティマについて調べていた時に、たくましく生きていく人だなという印象を持っていまして、今も基本的にはそう思っています。けれど『天幕のジャードゥーガル』を描くにあたって、改めてファーティマのバックグラウンドを想像した時に、戦争でひどい目に遭っているのではないかとか、そういうことを考えていくうちに、この話の中ではもっと不器用な人として表現していこう、こういうファーティマ像もあるかもしれないという別の可能性を見出していくことができたと思っています。
——過去の人間が我々と同じように考え、感じていた人間であったという認識は持っていますか。
一定の普遍的なものはあると思うんですけれど、 やはりその時代時代で価値観がとっても違う。信仰が一番そうだと思うんですけれど、死ぬのが怖いかどうかすらも、時代によって私たちとは違う感覚を持っている気もします。完全には同化できないし、同じように考えていたとは思えない。だけど、条件さえあえば今の人も同じように考えることはできるかもしれないとは思っています。そこにある、考え方がいくらでも曲がることができる可能性、そういう曖昧さ、時代の状況によって人は変わってしまうということこそが普遍な部分かなと思っています。
——『天幕のジャードゥーガル』という作品のテーマの一つとして「知る」ことがあるように思ったのですが、「昔の人が我々と同じような人間だった」といったことを見出だすことにおいて記録を知るということはどのように重要であると考えていますか。
結局、史料に残っている情報は先ほど言ったように断片的なものでもあり、どこまで細かく知ろうとしてもその人のことを本当に理解することはきっとできない。それは、同時代を生きている人でもそうだとは思います。結局、実像というものはその本人にしかわからなかったり、あるいは本人ですら知りえないかもしれないので、人にできることはあまりない。けれども、残っている史料が全てではないという想像力を失わないことや、こう書いてあるってことはこういう可能性もあるかもしれない、この史料を書いた人はこの人をどう思っていたのだろうかとか、そういうところまで想像力を回すことが大事だと考えています。
——『天幕のジャードゥーガル』の作品内で、表舞台だけではなく裏舞台とされがちな女性や奴隷について描くことは、その時代に生きた人々一人一人が普遍的な部分を有していたからという意識があったからですか。
そうですね。結局、表舞台か裏舞台になるかっていうのも後の時代その時代で決めることですので。どこを表と取るかっていうのがそもそも後世の評価でしかないので、どこにいた人も同じように人だったのかなとは思いますね。
——最後に、歴史創作は私たちにどのような影響を与えると考えていますか。
どういう影響があるかはちょっとわかりかねるところがあるんですけれども、以前『天幕のジャードゥーガル』にも関わってくださってる研究者の方があまり想像が及ばなかった可能性にフィクションが突っ込んでいってくれて初めて気づいたと言ってくださったので、 少しはそういうところもあるのかなと思ったりします。あとは単純に、 『天幕のジャードゥーガル』はモンゴル帝国時代という、日本ではおそらく広く知られていない時代を舞台にしているので、フィクションで興味を持ってくださる方が増えたらいいなと思っていますし、実際に興味を持ってくださった方、初めて興味を持ちましたというメッセージをくれた方もいましたので、この時代について知ってもらえるきっかけになるのかなと思います。