大切なものを失ったとき、その痛みは傷となって心に残り続ける。それを抱えて生きていくことはつらく、苦しい道のりだ。
何度も思い出してしまう悲しみから逃げ出したい、失ったことを忘れ去りたい。傷を抱え続ける苦しみから救われたい。私たちは、自分が生きていくためにそう願う。でも同時に、失ったものへの想いから、救われたいと思う自分を許せない。その気持ちがいつしか、自分自身を縛りつける呪いになってしまう。失ったものが戻ってくることはなく、残された私たちはそうして傷を背負う。
一人きりで傷を抱えて進んでいく強さを持つこと以外に、私たちが選べることはないのだろうか。
精神科医師の宮地尚子さんは、著作『傷を愛せるか』にて喪失体験やトラウマから生まれるさまざまな傷と、それに対する向き合い方を綴っている。傷を抱えた自分と、やがてまた訪れる喪失に、私たちはどう向き合えばいいのだろうか。医師として、研究者として、多くの傷を見てきた宮地さんにお話を伺った。
宮地尚子
一橋大学大学院社会学研究科で教鞭を執るかたわら、精神科医師としても活躍する。主な研究領域は文化精神医学、医療人類学、トラウマと文化・社会、ジェンダー、生命倫理。執筆活動にも精力的に取り組んでおり、今年4月には村上靖彦との共著、『「とまる、はずす、きえる −ケアとトラウマと時間について−』」(青土社)を発行。
自身のブログでは、日常の呟きやおすすめの本を紹介している。(https://www.naokomiyaji.com)
—現在のお仕事について教えてください。
大学で教授職に就いて医療人類学(註1)と文化精神医学(註2)の研究をしていて、週に半日だけ精神科医として診療もしています。他には執筆活動、ごくたまに講演などですね。
大学を出て、初めは医師として働いていたのですが、2年目ぐらいに医療人類学に出会って、臨床で感じていた疑問が学問的な問いとなる分野があることに、大きな衝撃を受けました。それから医療人類学と文化精神医学の研究を始めて、現在に至ります。
—著書『傷を愛せるか』にも書かれていましたが、精神科医や研究者として宮地さんが向き合っている「傷」とはどのようなものでしょうか。
傷というのは、その人の存在を根底から覆されるような出来事によって、主に恐怖心などの感情が非常に強く心に刻まれ、その出来事が終わった後もそれらの感情がそのまま残っている状態です。
その出来事を思い出したり、そのときの感情が蘇ったりすると、当然痛みを感じて苦しくなります。そのため、傷を抱えた人は、原因になった出来事の記憶や、それを想起させるものをなるべく遠ざけようとする反応が見られることが一般的です。
—何かを失う経験も、そういった傷になりうるのでしょうか。
そうですね。大切な何かを失うと、それを取り戻したいと思いますよね。その失ったものが大切であればあるほど、失ったという事実による痛みは大きくなるし、また、何度も思い出してしまうようになります。そして思い出す度に、もうその大切なものは失われたんだという事実を改めて突きつけられ、繰り返し痛みを感じてしまうんです。
そうやって、失ったという事実に対する痛みが慢性的に引き起こされてしまう状態は、喪失による傷だと言えると思います。
本来傷は、目を背けたくなったり、離れたくなるようなものです。喪失によって生まれた傷の場合もそれは同じですが、加えて、どうしてもその傷を思い出さずにはいられないような性質があるんですよね。失ったものに対して強い気持ちがあるから、それを失ったことによる傷への引力が生まれるんだと思います。
—喪失によってできた傷は、目を背けたくても引き付けられてしまうものなんですね。
そうですね。さらに喪失自体の性質から考えるなら、喪失って一度きりの体験ではないんですよね。何かを失ったら、その後はずっと心の空白を感じていくことになります。例えば、毎日一緒に登校していた親友を亡くしたら、登校する度にもう隣に居ないことを実感して、毎日喪失を思い知らされることになりますよね。喪失した後の生活においては、それまでは何気なかったはずの行動が、傷やその痛みについて思い出すきっかけに変わってしまうんです。
—喪失による傷を抱えた患者には、どのような治療を行うのでしょうか。
喪失による傷を抱えている人は、何に対してつらさを感じているのか自分では分からないということも多いんです。例えば、失恋をしてつらかったとしても、それは恋人を失ったからなのか、その人だけには見せられていた自分の一面を失ったからなのか、恋人がいる自分じゃなくなったからなのか、などさまざまな原因が考えられます。だから治療では、漠然とした悲しみの中で、その人にとって何を失ったことが一番つらいのか、何を取り戻したいと感じているのか、対話を重ねて一緒に考えていきます。
そうやって、悲しみの原因を分析することで、徐々に気持ちが落ち着いていくこともあるし、他のもので替えが利く部分が見つかることもあります。そういった治療を通して、患者さんが失ったものが戻ってこないことを十分に悲しんで、折り合いをつけられるようにしていきます。
—傷について人に話すことは、傷の状態にどう関わってくるのでしょうか。
自分の傷について説明することで、自分が何に傷ついているのかが明確になって、ぼわっとした自分の体験の全貌をはっきりさせることができると思います。
そういった意味では、文章を書くことや、絵を描くことが話すことの代わりになることもあります。他にも、自分の傷を何かの形に具現化して、それを捨てたり燃やしたりして処分するとか、何かに傷を投影することで傷の輪郭をはっきりさせて、それに対処することも同じ効果があると思います。そうやっていろんな方法で、気持ちが整理できると思うんですよね。
—著書では、傷ついた人からの相談を受けて、その人が傷ついた場所に包帯を巻く活動をしている学生を描いた『包帯クラブ』(註3)という作品について書かれていました。彼らの行動も、傷をはっきりさせて対処するものなのでしょうか。
そうですね。包帯クラブの人たちは、傷を抱えた人の話を聞いて、その傷を手当した証として包帯を巻いていきます。それもまた傷を抱えた本人からすれば、今まで捉えきれなかった傷が明確な輪郭を持って具現化されるということなんです。包帯を巻かれて傷が形になってると、それが第三者からも見えるようになって記憶が公共化されます。そうすることによって、記憶を自分だけの閉じたものにせず、開かれた形で向き合うことができるようになるんです。
これは災害が起こったときに、それが起こった場所に作られる遺構や記念館と同じ傷との向き合い方だと思います。自分たちが失ったものをちゃんと形に残すことで、そこに確かに傷があったという事実と、互いの傷をシェアできる場所になると同時に、そこにどれだけ苦しみがあって、その中にもどれだけ人の温かさがあったかということを残せる場所になるんです。いつもは思い出したくなくても、例えば、年に一回くらい訪れて思い出すことができますよね。
—改めて自分の傷をはっきりと捉えなおすことには、当然つらさが伴うと思います。そういったつらさとはどう向き合えばいいと思いますか。
確かに治療でも、患者さんの中には、傷と向き合うのがつらくてそもそも診察に来なかったり、不眠などの身体的な症状のみを伝えて、そのまま処方箋だけをもらって帰ったりする人もいます。でも、傷に向き合えるタイミングは人それぞれなので、自分のタイミングで向き合っていければいいと思います。精神科やカウンセラーに行かなくても、周りの人に話を聞いてもらえるなら、それで全然構わないです。
—自身の抱えた傷から目を背ける時間があっても良いということでしょうか。
そうですね。喪失を乗り越えることは簡単なことではないし、抱えた傷が大きければ大きいほど向き合うのに時間がかかるものです。だから、必ずしもすぐに乗り越えなくてもいいし、目を背ける時間があっても良いと思うんです。今って、どんなことがあってもすぐに回復しなきゃいけないような風潮があるけれど、ちゃんと傷ついたり、悲しんだりできることは、人間としての深みを持って生きていく上でもとても大切な力だと思うんです。効率的に生きていくことを考えたら、何を失おうと気にしないで次に進むべきなのかもしれないけど、でも、人生は効率だけが全てではないですから。
—著書の中でも、傷への向き合い方について「ときには目を背け、見えないふりをしてもいい。(中略)ただ、傷をなかったことには、しないでいたい。」と述べていました。傷から目を背けることは肯定されるが、なかったことにしてはいけない理由は何ですか。
傷をなかったことにすると、その傷で苦しんでいた自分もなかったことになりますよね。そうではなく、傷を受け入れて、痛みや苦しみをちゃんと味わったことを自分で認めてあげて、自分を大切にしてあげるべきだと思います。
傷をなかったことにして、何もなかったかのように元気でやっていけること自体は全然構わないけど、痛くてつらくてたまらなくて、それでもなんとか必死で生きてる自分を意識の外に追いやって、残った自分だけが自分なんだって思っちゃったら、それは自分に対してあまりにかわいそうじゃないですか。
—傷を自分だけで抱えることをやめて、誰かにそのことを話したりすることで楽になろうとするとき、失ったものを蔑ろにしているような罪悪感を覚えてしまうことがあると思います。そのような場合でも、自分を大切にすることを優先して楽になっても良いのでしょうか。
そこまで喪失に対して責任を負おうとしなくて良いと思います。喪失した後って、失ったものに対して基本的には何もできないものです。そういう自分の無力さを認めてみると、罪悪感から解放されると思います。何かを失って、その後も生きていく上で、そういった赦されるという感覚はとても大切ですね。
—傷を乗り越えた後に得られるものはなんなのでしょうか。
乗り越えるというのは、傷に耐えられるように強くなるということではなくて、むしろ傷ついてしまう弱さを抱えたままでいられる強さを持つことだと思います。人は生きていく上で喜びだけじゃなくて、悲しみや苦しみも必ず経験しなければいけません。人間とはそういった弱さを持っていることが当然であると理解しておくことで、それらの感情をなかったことにせず、受け入れて抱えながら生きていくことができるようになると思います。また、傷ついちゃう自分がいるって分かっていると、他の人もみんなそうかもしれないって気づけて優しい気持ちで接することができるようになると思うんです。
そうして、自分の弱さを受け入れて自分を愛せるようになって、他の人と関わりながら生きていくことで、人間として味わいのある人、深みのある人に成熟していくことができるんじゃないでしょうか。
註1 近代医療では病気と判断される状態にあっても、その他の医療においては病気とみなされないこともある。このようにある特定の地域においての疾患観念や治療方法を、文化・経済・政治などのさまざまな観点から観察し、分析する学問。
註2 多様化する社会において、文化・性・教育などの違いから起こるさまざまなメンタルヘルスの現状を比較研究する。
註3 2006年にちくまプリマ―新書から出版された天童荒太による小説。女子高生のワラをはじめとした高校生たちが「包帯クラブ」を結成し、自分たちの大切なものを守ろうとする姿を描く。2007年に映画化された。
「傷を愛せるか」
2010年1月20日に大月書店より発行。2022年9月10日、ちくま文庫より増補新版を発行。旅先や臨床での体験、過去を回想しながら感じたことを温かく綴ったエッセイ集。