夢は原動力になる。夢は苦しみと同時に、生きる活力や自身の存在理由を与えてくれる。でも、現実の壁に阻まれたり、やる気をなくしたりして、夢を叶えることに挫折することがある。挫折すると、これまでの自分の努力が無駄に思えてきたり、自分の進むべき道を見失ったりする。また、今度はそうなるのが怖くて、もう違うと分かっていることにいつまでも固執してしまうこともある。
作家の大木亜希子さんは、女優としてデビューしたのち、SDN48(註)に二期生として加入し、引退後はライターとして会社に勤め、現在は作家やフリーのライターとして活躍しており、私小説『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』は実写映画化された。一見華々しいキャリアを歩んできたように見える大木さんは、実際には数多くの挫折を乗り越えてきた。大木さんは、挫折から立ち上がる方法について、どのように考えているのだろうか。
(註)2009年に結成された、女性アイドルグループ。AKB48グループの一つとして活動した。メンバーは原則20歳以上。
大木亜希子
14歳で女優としてデビュー後、ドラマ『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)をはじめ、数々の映像作品に出演。20歳でSDN48に加入。引退後は大手ニュースサイトに記者として入社し、営業担当兼、編集者として活動。現在は独立し、フリーライター・作家として活躍中。自身の実体験をもとに執筆したウェブエッセイが大きな反響を集め、改変を重ねた作品が『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』(祥伝社)として出版、2023年秋に同作を原作とした実写映画が公開。(大木亜希子公式HPプロフィール参考)
─アイドルになったきっかけはなんでしたか。
もともとアイドルに興味があったわけではなくて、実は女優として芸能界デビューしたんです。14歳のときに、父親が病で倒れて亡くなって。同じ時期、たまたま芸能事務所の方からスカウトされたので、若いうちから働いて家計を助けることができたらいいなと思って決意しました。初めは良いお仕事をたくさんいただきましたが、続けていく中でオーディションに落ち続けて、19歳のときにはすっかり仕事がなくなってしまっていました。周りからの評価にも悩むようになって、女優としての目標を見失い、当時所属していた芸能事務所は退社して、一年遅れで短大に入りました。それと同じタイミングで、SDN48というアイドルグループのオーディションを受けてみないかと、芸能関係者の知り合いから声をかけてもらったんです。女優とアイドルとでは勝手が違うのは分かっていたんですけど、最後にもう一度だけ芸能界で頑張ってみようかなと思い、女優からアイドルになりました。
─アイドルとしての活動は楽しかったですか。
もちろん、楽しかったですよ。ただメンバーが39人いる中で、劇場公演やSNSでいかにして自分の魅力を伝えて、応援してくれる人を増やすかっていうのは、競争しているみたいでつらい部分もありました。握手会やファンイベントで、直接ファンの方とお話をさせていただけることも多かったので、そういうときに温かい言葉をかけてもらったことが、一番嬉しかったですね。生誕祭のときに、応援してくれている方たちみんなでお揃いのTシャツを作ってくれたり、私に寄せ書きを贈ってくれたりしたのが印象に残っています。
─アイドル活動に対して本気になったきっかけはなんでしたか。
劇場公演のとき、せっかく目立つユニット曲に選んでいただいたのに、踊りが下手すぎて外されてしまったことがあって。秋葉原のAKB劇場って、踊りのスキルが足りないと立たせてもらえないことがあるんです。プロとしてステージに立つ以上は当然のことではあったんですが、ファンの方が一生懸命に自分を応援してくれているのに、その曲で公演に立てないという状況が半年以上続きました。他のメンバーは皆ステージに出ている中で自分だけが出られていない現実に直面して、これは生半可な気持ちではいけない、本気で頑張ろうと思いました。
─SDN48セカンドシングルのカップリング曲『淡路島のタマネギ』ではセンターを務めていましたが、それが決まったときはどんな心境でしたか。
すごく嬉しかったです。ただ、その喜びよりも焦りの方が大きかったと思います。私がセンターになった曲は、表題曲じゃなくてカップリング曲だったので、まだまだ頑張らないと認めてもらえない、という認識でした。やっぱり表題曲のセンターがグループの中で一番目立つわけですし、そのためには選抜メンバーに入る必要がある。そういう意識が強かったですね。日々、どうすればもっと前に出られるのか、分からないながらも模索していました。
─ファンを増やすために意識してやっていたことはありますか。
SNSで、自分の気持ちを素直に発信することです。自撮りを頑張るという手もあったんですけど、私の場合は文章に力を入れていました。例えばツイッターであれば、140文字という限られた文字数の中でいかにして本音を伝えるかということを意識していました。他の人と被らない表現で、なおかつ嘘がなくて、膨大なツイートが流れてくるタイムラインの中でもきちんと私の言葉が目に留まる文章を目指していましたね。
─当時、大木さんにとってアイドルという仕事はどんなものでしたか。
最初は何も分からずに飛び込んだけれど、活動を続けていく中でこれは自分の全てを懸けて挑戦するに値する仕事だなと思うようになりました。でも同時に、おそらく死ぬまでアイドルでいられるわけではないという意識も強くあって。もちろん結婚や出産を経て、長く活動をされている方もいますが、私自身はアイドルを辞めた後、30代、50代になったときに何をしていたいんだろう、何になっているんだろうということを考えていましたね。
─SDN48がデビューから3年で事実上の解散を迎えたとき、心の準備はできていたんでしょうか。
突然のことで、心の準備はできていませんでした。一方、少しずつでも良いからグループがなくなる事実を受け入れて、次の方向性を考えていかなくては、と思いました。辞めた後のことについてはいつかは向き合わなきゃいけないと思っていたし、ついにその時が来たなという感じでしたね。悩んだ結果、ひとまずアイドル活動を続けようと思って、秋葉原を拠点に活動する地下アイドルになりました。
SDN48として活動していた当時は武道館のような大きな会場に立たせてもらっていましたが、解散後は秋葉原の小さなライブ会場に、一人の地下アイドルとして立つようになって「これからどうしたら良いんだろう」と迷いました。
─地下アイドルを辞めたのはなぜですか。
活動を続けていくにつれ、SDN48時代には100人いたファンの方たちが、50人になって、10人になって、3人になって、というふうに目に見えて減っていくのを感じたからです。応援し続けてくれるファンの方を尊いと思う一方で、私自身20代半ばに差し掛かり、いよいよ「本気でなりたい何か」を真剣に考えなければと思い、別の仕事を探してみることにしました。
SDN48時代からのファンの方に「あーこが書く文章は面白い」って言っていただいたことを覚えていたので、その言葉を信じ、記者業ができる会社を調べて連絡しました。手始めに、パソコンでウェブメディアのホームページを検索して、その企業の公式サイトのお問い合わせフォームから、元アイドルという経歴を伝えた上で記事を書かせてほしいとお願いしたら、そのメディアの編集長が私の経歴を面白がってくれたんです。そこから記者として仕事をさせてもらえることになって、芸能事務所を退所し25歳で人生を再スタートしました。
─会社員になると決断したときはどのような心境でしたか。
芸能界への未練はなくて、むしろ安心した部分が大きかったです。アイドル時代は同世代の女の子と競争しなくてはなりませんでしたが、会社員としてなら、競争せずに穏やかに暮らせるかもしれないと思ったんです。それに、会社員の場合、安定したお給料をいただくことができますし、これまで自分が知らなかったようなビジネススキルを身に付けられるんだという期待もありました。
─実際に記者として働き始めて、会社員としての日々は充実していましたか。
はい。会社の人たちはとても良くしてくれて、請求書の書き方さえ知らない私にゼロから社会人としての常識を教えてくれました。記者としての仕事も楽しんでやれていたと思います。でも、アイドルを辞めたからといって、自分と周りを比べてしまう癖は変わりませんでした。当時の私は20代半ばで、周りはみんな結婚していたり、華やかな仕事で十分なお給料がもらえていたり、素敵な家に住んでいたりして、そんな周りの生活がキラキラ輝いて見えていました。正直、羨ましいと思いました。それで、「自分もみんなに追いつかなきゃ」と思ってすごく頑張ったけれど、なかなかうまくいかなくて。
私は10代の前半から芸能のお仕事をさせてもらっていたので芸能界のこと以外知らないし、思いがけず会社員になってみたものの、この先、自分はどうなるんだろうって思い詰めちゃったんですよね。
周りと自分のギャップも目につくし、自分のやりたいことが分からないし、今の現実は理想に追いついてないって気づいたときに、精神的に落ち込んでしまいました。最終的にはある日、突然通勤途中に駅のホームで歩けなくなってしまって、結局、会社員も辞めることになりました。
これまで、女優として野心を持って厳しい芸能界をサバイブして、アイドル時代も厳しい競争社会でサバイブして、今度は一般企業で良い成績を取って、なんとしても人生の勝ち組になろうとしていたのに、ここでも詰んで、精神的に疲れてしまいましたね。これまで頑張ってきたプライドが粉々に砕かれました。
─会社を辞めた後はどのような流れで作家になったんですか。
会社を辞めた2018年頃からは、独立してフリーランスライターとして働き始めました。ただ、本業だけでは食べていけなかったので、通販会社で商品の梱包をするアルバイトをしていました。独立とは名ばかりで、お金も、仕事もない状態でしたね。当初は四畳半の小さなアパートに一人で住んでいましたが、次第に家賃を払うこともキツくなってきて、毎日が不安でいっぱいになってしまって。そんな中、ある日、私の生活を心配した姉から紹介される形で、縁あって、恋人でも家族でもない50代の男性とルームシェアをすることになりました。
もちろん、お互い恋愛感情を持たない、本当に赤の他人のおっさんです。思い切ってそのおじさんとルームシェアをするようになったら、程良い距離感があって、とても穏やかな生活が始まったんです。
そこから数カ月が経った頃、自分が人生に詰み、突然に駅のホームで歩けなくなったことや、会社員を辞めてから赤の他人のおっさんと住んでいることをウェブ上のエッセイで発表したところ、想像以上に大きな反響をいただいて。『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』(以下、『つんドル』)として出版することになったんです。これがきっかけで、たくさんの方に私の作品を知っていただけるようになり、作家として歩むことになりました。そのことがきっかけで、ようやく、文章を書くという天職に出会うことができて、世界が一変しました。
─そのウェブエッセイや『つんドル』では、かなりプライベートなことまで踏み込んで書かれていますが、私的なことを表に出そうと決心できたのはなぜですか。
確かに最初は「こんなことは恥ずかしくて人には言えない」とか、「もしも言ったら嫌われるかも」と思っていました。例えば、会社員のときに焦って婚活したけど全然うまくいかなかったこととか、友達が結婚しても素直に喜べなかったこととか、そういうことは自分の心の内に留めていたんです。でも、思い描いていた理想の人生のレールからはみ出てしまったと感じたときに、もう赤裸々に、自分の思うことを世間に発信してみてもいいんじゃないかっていう覚悟ができたんですよね。
─『つんドル』が大きな反響を得て、どんな気持ちでしたか。
同世代の女性から「自分の抱えていたモヤモヤを代弁してもらえたように感じました」というメッセージをいただいたときは嬉しかったですね。他にも、テレビや雑誌、新聞やラジオなど数多くのメディアで、自分が思ってもみなかったくらい大きな反響をいただいて。それまで自分が恥ずかしくて言えなかったことも、公にすることで誰かの力になれるかもしれないと感じました。
─いくつもの挫折から立ち直り、『つんドル』の書籍化という成功を勝ち取ったわけですが、そこに至るまで情熱を持ち続けられたのはなぜですか。
どんなに挫折を味わっても、「いつかは絶対に自分の天職に出会える」と確信を持ち続けていたからかもしれません。自分は女優として鳴かず飛ばずだったし、アイドルとしてもセンターにはなれなかった。会社員としても頑張ったけれど、ドロップアウトしてしまった。そうやって、理想としていたものになれないということを何度も経験したけど、「自分は何者かになれる」という根拠のない自信があったからこそ、最後の最後で、踏ん張ることができました。むしろ挫折を経験したからこそ、周りと比べるのをやめて、他人の評価軸ではなくて、本当に自分がやりたくて向いていることを全力で模索しようというふうに思うようになったんです。
─挫折を経験して、情熱を失うのではなく、むしろ情熱を注ぐ方向を見つめなおすことができたんですね。
そうですね。確かに最初は女優として、アイドルとして、会社員として成功したかったわけですから、その夢に破れたときはショックでした。でも、挫折したからこそ、道が開けたんです。目指していた夢や目標が叶わなくても、そこから第二、第三の目標ができて、セカンドキャリア、サードキャリアと歩んでいって、最終的には自分がやりたいことが見つかりました。そこにたどり着くまでには、心の底から挫折することを経由しないといけないんじゃないかなって、今では感じています。
─夢に挫折した後、もう一度立ち上がるためには何が必要だと感じますか。
夢に破れたときって、やっぱり悔しいし悲しいし、立ち上がる余裕はないと思うんですね。夢を叶えられなかった自分に対する周囲の目が気になってしまうこともあると思います。それでも、そこで折れずにちゃんと過去への未練を捨てて、全てを一掃する覚悟を持つことが必要だと思います。今までの自分を失うことを怖れないでほしいんです。挫折も含めて自分の道だとすれば、失敗なんかないと思うんですよね。失敗ではなく、この人生で自分に与えられた使命にたどり着くまでに必要な経験なのだと思います。
─全部を捨てるっていうのは衝撃的ですね。
全てを捨てて心に空きスペースを作ることで、精神的な余裕が生まれると思います。そうしないと、新しい人との出会いが生まれないし、チャンスが降ってきても気づくことができないのではないでしょうか。だから、夢破れたときは一度しっかり落ち込んで、その後はきっぱり未練と執着を捨てて、新しい可能性を受容できるだけの余裕を確保することが大事だと思います。
─夢への情熱をなくして、生きる指針を見失ってしまったような人はどうすればいいと思いますか。
情熱がなくなったら、その事実を受け入れることができるまで休息をするべきです。それに、一つの物事に対して情熱をなくしてしまうことは、絶対に悪いことじゃないと思います。突然、今まで目標にしていたことに対して情熱を失うことだって、ありますよ。それって、潜在意識の中ではその夢を叶えることはもう目指していなくて、他のことに取り組みたいって思っているってことだと思うんですよね。だから、抗わないで次の夢を探してみた方が良いと思います。
─先ほど「全てを一掃する」というお話がありましたが、前の夢を追いかけていた自分のことは全て忘れてしまった方がいいんでしょうか。
執着はなくした方がいいけど、それまでの自分を全てをなかったことにする必要は全くないです。ただ、夢に挫折したときこそ、冷静に自分自身を分析することがすごく大事だなと思っています。諦めてしまった夢を志したきっかけや、その夢を叶えて実現したかったことがたくさんあると思うので、その中にこそ、次の夢を見つけることに繋がるような何かがきっとあると思います。
─それまでの自分からヒントを得つつも、割り切って次に進んでいくことが大事なんですね。
そう思います。夢に破れるのって、別に自分がズルしてたわけでも、頑張ってなかったわけでもなくて、考え抜いた上での結果だと思うので、悲観することではないと思います。挫折が新たな出会いやチャンスを生み出すこともあると思います。
それでもやっぱり、最初は勇気が要ると思います。だめだと分かったその時に方向転換することって、全然ネガティブなことじゃないのに、夢から撤退する直前が一番それに対して固執してしまうものですよね。だけど、夢に対する熱意がもうないのに、それを認めるのが怖くて、しがみついていることほど不幸なことってないです。だから、挫折は誰にでも訪れるものであると覚悟を決めて「はい、私は挫折しました。自分自身も、よく頑張りました。お疲れ様でした。次に進みます」って割り切って、勇気を持って次に進めばいいと思います。
『人生が詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』(祥伝社)
仕事もない、彼氏もいない、金もない、まさに人生が「詰んだ」元アイドルのアラサー女子である「私」は赤の他人のおっさん、ササポン(56歳)と同居することに。ササポンとのゆるやかな交流を通して、「私」は徐々に自分を取り戻していく。どん底から這い上がる力を与えてくれる一冊。
『アイドル、やめました。AKB48のセカンドキャリア』(宝島社)
『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』が反響を得る前に、大木さん自身が出版社に自ら企画を持ち込んだことで実現した一冊。AKB48グループ卒業後、第二の人生を送る8人の元メンバーを追跡取材したインタビュー集。保育士やラジオ局社員、バーテンダーに声優とそれぞれの新たな道を歩む彼女たちのエネルギーには圧倒される。
映画『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』
同名の小説を原作とした映画。主人公の安希子を深川麻衣が、同居人のおっさんであるササポンを井浦新が演じる。2023年11月公開。