「誰も知らぬ『飾る』を発見する」
「超芸術トマソン」という言葉を知っているだろうか。いや、そもそも私たちは「飾る」という言葉についても十分に知らないのではないだろうか。音楽や写真、メイクなど、どのような芸術の形態であれ「『飾る』には制作者の『飾る』意図が必ず伴っている」という認識が常識的である。では、もしその意図が存在しなかったら?それを「発見」することによって初めて「飾る」が存在するものがあるとしたら?それはもはや芸術ではない。芸術を超えた芸術、すなわちそれが「超芸術トマソン」なのである。
「超芸術トマソン」を一言で定義すると、「町の各種建造物に組み込まれたまま保存されている無用の長物的物件」である。例を挙げると、階段がないのに外壁の高いところに取り付けられた「無用ドア」、上った先に何もない「純粋階段」などがある。「常識」とは違った角度から「飾る」にアプローチする「超芸術トマソン」に魅せられた人は少なくない。本インタビューでは、浮世絵イラストであるあるネタを制作する一方で、本名である山田孝之及びY氏の名義で福岡市内の穴場スポットや「超芸術トマソン」などを紹介するブログ「Y氏は暇人」を運営している山田全自動さんに「超芸術トマソン」の魅力についてお話を伺った。
山田全自動:イラストレーター/ウェブデザイナー。1983年生まれ。2011年ウェブデザイン会社「クラウドナイン」設立。本業の傍ら浮世絵風のイラストにあるあるネタを添えた作品をInstagramに投稿したところ話題を呼んだ。また、本名の山田孝之及びY氏の名義で福岡市内の穴場スポットや超芸術トマソンなどを紹介するブログ『Y氏は暇人』を運営している。著書に『山田全自動でござる』(ぴあ刊)、『福岡路上遺産』(海鳥社刊)がある。
発見の原点
—— 山田さんが運営されているブログ「Y氏は暇人」の中では、それこそトマソンの記事がそうであるようにあまり人に知られていない場所や建物を取り上げた記事が多くありますよね。そのような場所や建物を発見するようになったきっかけというのはなんでしょうか。
つげ義春という漫画家がいて、その漫画の中で鄙びた、寂れた町に登場人物が行くシーンがたくさん出てくるんですよね。
それが結構好きで、僕もそんな感じのことをやってみたいなと思ったんです。
それで、ちょっとマニアックなところとか、あまり人が行かない、観光地になっていないような、そういういろんなところを巡り始めたのがきっかけですね。
元々そういう場所が好きだったのではなく、その漫画の影響です。
—— 人に知られていない珍しい場所や建物を発見する魅力はなんだと思いますか。山田さんはどのようなところに惹かれますか。
「自分だけが発見した場所だ」みたいに思えるのが面白いです。
有名な観光地とかと違って、レトロなスポットとか、地元の人でもあまり知らないような場所っていうのは、YouTubeや本に載ってないので、実際に行かないと体験できないことが結構あるんです。
そういう場所を自分で発見するっていうのは楽しさも嬉しさもありますね。
もちろんそれそのものの物質的なすごさというか、建物の造形としての面白みもあります。
発見したときの喜びが半分、その造形の面白さが半分というところですね。
—— そのような発見を始めたことで、日常生活での世界の見え方に変化はありましたか。
そうですね。近所のそういう場所にも気づくようになりました。
あとは、普段なら絶対通らないような道をあえて通る、ということもするようになりましたね。
「今までどおりの決まった道ではなくちょっと裏の道を通ってみようかな」とか「太い道と細い道があったら細い方を通ってみようかな」みたいな、そういう感覚になりました。
—— 山田さんは浮世絵イラストであるあるネタを描かれていますよね。そのことと、珍しい建物や場所を発見することは、日常生活の中で常にアンテナを張っているという点で共通していると思ったのですが、山田さんはどう思われますか。
あー、それはすごくあると思います。
物事をちょっと斜めから見るようになったり、今までスルーしていたようなことも探ってみようかと思ったりするようになりました。
確かに、そういう面で共通点があるような気がしますね。
「超芸術トマソン」との「出会い」
——「超芸術トマソン」という名前のついた概念とはどのようなきっかけで出会いましたか。
たしか階段のないドアだったと思うんですけど、外壁の高いところにドアがあって開けたら落ちてしまう、みたいな建物を見つけたんです。
SNSにその写真を「面白いの見つけました」ってあげたら、「トマソンですね」と返信があって、それでトマソンってなんだろうと思ってインターネットで調べて、その概念を知りましたね。
だからSNSで教えてもらったことがきっかけです。
それまではそういうカテゴリーというか、名前がついたものだとは全然思ってなかったんです。
でも高いところにあるドアとか途中で終わっている階段とか、そういう写真はちょいちょい持っていたんですよね。
「こういうのをトマソンっていうんだ」って名前を知ってから興味が湧いて、それからどんどん探すようになりましたね。
—— そうなんですね。ということは、トマソンを知って初めてトマソンというものを見つけようと思ったのではなく、自分の中でカテゴリーとして確立してはいなかったけど、既にそういうものを山田さんは知っていたということなのですね。
そうです。こんなことをやっているのは自分くらいだと思っていたら、意外とメジャーだったというか、アートのジャンルとして確立しているものだったんだなって、嬉しくなりましたね。
「あー、自分のセンスってもしかしたら間違ってなかったのかな」という気持ちになった思い出があります。
—— トマソンの概念を知ってから、そのような人に知られていない建物や場所を探しに行くときに、「今日はトマソンを探そう」と意識して歩くようにはなりましたか。
いや、これが不思議なことにですね、意識すればするほど見つけられないんです。
だからトマソンを探すだけじゃなくてレトロなお店に行ってみるとか、そういうことのついでに見つけるような感じです。
もちろん探そうと思って外に出かけたことはありますけど、そうすると大体失敗するんですよね。
—— なるべく意識しないように、でもなんとなく周りに気を配りつつ探しているということですか。
そうですね。歩きながらちょこっと頭の片隅に意識しているような感じですね。
価値のないところに価値がある 意味のないところに意味がある
—— 今回のテーマの「飾る」に則して考えると、トマソンは一般的な「飾る」に属さないものだと思います。一般的な「飾る」は、制作者が「飾る」意図を持っていて、それを見た人がその意図を受け止めるというものです。それに対してトマソンは、発見した人が初めて「飾られているな」と思うもので、意図を伴わない「飾る」だと思うのですが、そのような中でトマソンの価値や存在意義はなんだと思いますか。
えっとまぁ、価値は多分ないです(笑)
価値がないところに価値があるというか、なんかちょっと哲学的な感じになりますけど…なんでしょうね、意味がないところに意味があるというような感じですかね。
例えば高いところにドアがあるとして、それに階段がついていたら多分そのドアには意味があると思うんです。でも意味があったらそれはトマソンじゃないんですよね。
階段がなくなったことで、高いところにあるドアそのものには意味がなくなったけど、そのことで逆に意味を持つというような、そんな感じです(笑)だから存在意義としては、ないことに価値があるということですよね。
もしトマソンを保存しようとしたら、その価値はなくなるんです。
なんて言うんでしょうね、だからこそ探せない価値があるっていうことですよね。
そこにフラグが立つというか、存在意義が見出だされるので、ある意味で価値がなくなっていくような感じです。
作ろうと思わずに、意図せずにできあがったからこそ価値があるっていうことですね。なんかゴチャゴチャっとしていますけど(笑)
—— 山田さんが本業とされているデザインのお仕事は一般的な「飾る」に属するものだと思います。相反する概念というところで、意図されない「飾る」であるトマソンは、山田さんのお仕事になにか影響を与えることはありますか。
直接的なデザインへの影響っていうのは全くないと思います(笑)
ただ、物事を違う視点で見るっていう意味では影響があるのかなと思いますね。
トマソンと言われなかったら別に何も思わないし気づきもしないと思うんですけど、この概念には「ちょっと視点を変えてみると面白いものが見えてくる」という楽しみ方があると思うんですね。
だからデザインのネタを考えるときには、やっぱりちょっと違った視点を持つ必要があると思うので、そういう意味ではかかわりがあるというか、役に立っていることはあるんじゃないかなとは思いますね。
——「役に立っている」というのは、自ら役立てようとしているのではなく、「今考えてみれば役立っているのかもしれない」というものであって、トマソン自体に存在意義や価値というものは存在しないという考えに通じるものでしょうか。
そうですね。トマソンそのものに意義というものはないと思います。
意義がないからこそトマソンであると考えていますね。
「飾る」を楽しむ
—— トマソンについて色々と考えると、哲学的な概念にも、芸術的な概念にも、または遊び心のある日常的な概念にも、どれにも属さないようでどれにも属すことができるものなのではないかと思ったのですが、山田さんはどう思われますか。普段トマソンを発見するときは、遊び心を持って行っているのか、芸術として見ているのか、どのように考えていますか。
僕はどちらかと言えば遊び心を持って、なんか面白いものっていう感じで見ていますね。
さっき話した通り、アートに寄っちゃうと変に意義を見出してしまうような気がして、それだとトマソンの意味合いが変わってきますよね。
うーん、無意味や無用にしておくことで価値があるのかなと思うので。
逆説的ではありますけど、アートとして見ない方がむしろアートっぽくなるんじゃないかと思ったりはしますね。
—— ということは、意図せずに飾られているトマソンを発見する行為はするけど、芸術のカテゴリーに当てはめないように限度の調節のようなことをしているのですね。
そうですね。意義がないものを楽しむような概念だと思っているので、アートみたいにしたりアカデミックにしたりするのはちょっと違うんじゃないかなとは思いますね。
—— 制作者が意図を持っているという「飾る」に対する一般的な考えは、「そうでなければならない」という固定観念なのではないかと考えました。固定観念や先入観を持たない子供の自由な発想に大人が驚かされるという話はありふれていますが、それを踏まえると、製作者の意図がなくとも「飾る」が存在するトマソンは一般的な「飾る」の理解を超えた先にある新しい概念なのではなく、「誰もが子供のころには知っていたけど、成長する過程で忘れていった概念」なのではないでしょうか。山田さんのように「発見」をしていない人でも潜在的にトマソンの概念を知っていると思いますか。
トマソンの概念は特定の人のみが持っている考えではなく、誰もが潜在的に持っているものだと思います。
ただ、誰もが感覚として持ってはいるけれど、トマソンのようなものを発見できるか、そしてそれを楽しめるかの違いはあるのかなと思います。
—— トマソンは哲学や芸術としてではなく、遊び心を持って楽しむような概念だと伺いました。しかし実際トマソンについて人に説明すると、なにか難しい概念として捉えられてしまう場合が多いと思います。重くはないけれど難しさを感じてしまう概念というところで、山田さんご自身でお思いになることはありますか。
個人的にはアカデミックになればなるほど本来の「トマソン」ではなくなってしまうような気がするので、楽しむということに主眼を置くべきだと思います。
ただ、「どうでもいいことをあえてアカデミックに大真面目に語る面白さ」みたいなものもあるので、それはそれで良いかなという気もします。
「超芸術トマソン』は哲学や芸術ではなく、遊び心を持って楽しむ概念である」という考え自体が固定観念なのではないだろうか。確かに、「楽しい」や「面白い」といった感情は頭で考えた挙句感じるものではない。外へ、街へ出よう。トマソンを発見しよう。いや、トマソンだけに限らないかもしれない。「飾る」に触れたとき、自然に心に起こり、感じたものを大切にしよう。
「楽しい」「面白い」「美しい」「綺麗」「好き」「らしさ」や「べき」は関係ない。その「生きた体験」こそが重要なのだ。私たちは「飾る」について十分に知っているのだろうか。