VTuberとは、Virtual YouTuber(バーチャルユーチューバー)の略称であり、架空のキャラクターの姿をした2Dまたは3DのCGモデル(いわゆるアバター)を使用し動画配信等を行う活動者の総称である。二〇一六年にVTuberの草分け的存在と名高い「キズナアイ」が登場以降、現在では数万人ものVTuberが存在すると言われている。その活動スタイルは様々だが、大手事務所に所属するVTuberには、年齢や種族等キャラクターとしてのプロフィールが与えられる一方、そのプロフィールに沿いながらもキャラクターに配信者(中の人)自身のパーソナリティや体験が反映されるという特徴がある。近年は、総務省や有名企業とVTuberがコラボするなど、その活躍は目覚ましい。しかし一方で、アニメキャラクターと混同されることもしばしばあり、その構造の認知はあまり進んでいない。
今回は、そんなVTuberを哲学的な視点から研究されている山野弘樹さんにお話を伺った。
VTuberとは一体何者なのか。一億総アバター時代が謳われる今、改めてその存在を見つめてみよう。
<山野弘樹>
一九九四年、東京都生まれ。二〇一九年、東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。現在、同大学院博士課程在籍。ポール・リクールの思想を中心に、現代フランス哲学を専門に研究。著書に『独学の思考法』(二〇二二年、講談社)『VTuberの哲学』(二〇二四年、春秋社)『VTuber学』(共著、二〇二四年、岩波書店)がある。
―最初に、山野さんの簡単な経歴を教えてください
東京大学大学院総合文化研究科超域文化専攻に所属しながら、ポール・リクール(註1)というフランスの哲学者の研究をしております。そこで哲学の研究をしているときに、私はVTuberという存在に出会いました。それがすごく不思議な存在に感じ、私は次第にVTuber文化そのものに対して学術的な興味を抱くようになりました。そして、そのことを哲学の先輩にお話したら、「すごく面白いと思うし、論文のテーマにも出来ると思う」というお言葉をいただきました。その後押しもあって、三年前からVTuber研究に参入しました。VTuber研究にも、歴史的な観点の研究、経済モデルの分析、社会学的な調査など、ジャンルは沢山あるのですが、私はもっぱら哲学の観点からVTuber研究を行っています。二〇二二年には、国内で初めて、「VTuberの哲学」をテーマにした論文を学術誌の査読に通すことができました。そのことをSNSで発信したところ、当時かなり話題になったことを今でも覚えています。また、そのことが、後にホロライブ所属VTuberの儒烏風亭らでんさんとのコラボに繋がるきっかけになりました。
―『VTuber』と『哲学』という言葉にはギャップがあると思うのですが、どうしてVTuberを哲学のテーマに据えたのですか?
私がそもそもVTuberで論文を書けるのではないかと思うに至った大きなきっかけがありまして。それが、有名な美学者の松永伸司さんという方が自身の博士論文を元にして出版された『ビデオゲームの美学』という本です。美学とは、人間の感性に訴えかけるものについて研究する、哲学の一種です。つまり、ビデオゲームを哲学の対象として論じている本です。これを読んで、今までただの娯楽としか見ていなかったゲームについて、学問的にしっかりと分析されていることに本当に衝撃を受けました。それと同時に、ビデオゲーム、つまり「マリオ」や「ゼルダ」などについての哲学的な論文が書けるのだったら、VTuberでも書けるのではないかと思いました。それがVTuberの哲学的な論文を執筆することになった決定的な理由です。確かに『VTuber』と『哲学』というのはあまり結びつかないかもしれないけれど、サブカルチャー的なものを真剣に学術的に扱うという流れがあるということを松永先生の著作から知ることができました。
―VTuberは哲学的にどのような存在と定義されるのでしょうか?
これはとても難しい問題で、意見が分かれています。まず、VTuberはいわゆる中の人、つまりVTuberの演者だと定義する議論があります。これが配信者説。次に、中の人がCGモデル、アバターを利用して、吸血鬼や高校生として振る舞うことで、それを鑑賞する人々の想像力を一定の方向に導く。そうして配信活動を行う中で創造されたキャラクターこそがVTuberだという説明があります。つまり、VTuberをフィクションキャラクターとして捉えている。これが虚構的存在者説。この二つの説はそれぞれかなり違います。前者は中の人がVTuberだと言うのに対し、後者は中の人の振る舞いによって作り上げられたキャラクターこそがVTuberだと主張しています。
―山野さんはどのような立場をとられているのですか?
私は配信者説でも虚構的存在者説でもなく、制度的存在者説を唱えています。中の人とも違うし、フィクションキャラクターでもないという主張です。VTuberがフィクションキャラではないというのは、ファンの方でしたら皆さん理解されると思います。基本的に配信上のVTuberの言動に台本は存在せず、決まりきったストーリー上の存在ではないので。とはいえ、中の人=VTuberなのかというと、個人的には腑に落ちなくて。第三の選択肢がないかと思った時に、VTuberというのは、中の人とアバターモデルの両者から部分的に構成されることによって生み出される制度的存在者である、という立場を提唱するに至りました。
―制度的存在者説とはどのような理論なのでしょうか?
中の人がAというVTuberを引退し、代わりにBというVTuberとしてデビューすることを「転生」と呼びますが、やはり転生したら同じVTuberと捉えることは難しいと思います。同じ中の人だから当たり前なのですが、いくら極めて似た声で、人柄もすごく連続していても、同じ存在とは思えない。断絶がある気がします。そこで、その感覚を説明する理論立てを作ることができないだろうかと考えました。私が二〇二四年段階で唱えたバージョンの制度的存在者説は、中の人とモデルが結びつくことによって成立するのがVTuberだという認識です。掛け算のような感じです。中の人が変わっても別物になりますし、結びつくアバターモデルが変わっても、やはり別のものになってしまいます。あくまである特定の中の人と、ある特定のモデルが結びつくことによって、今我々が見ているVTuberが出来上がる、という図式を私は取っています。そういう図式を取ると話はシンプルになります。転生というのは、中の人が一緒でモデルが変わる事ですので、そこには別物の制度的存在者が成立しているといえます。
制度的存在者という概念を私はよくお札の例で説明していまして。同じ紙でも、Aの紙に樋口一葉をデザインしたら、それは五千円札になりますが、Bの紙に福沢諭吉をデザインしたら一万円札になります。つまり、同じ紙から出来ていても、デザインされているものが違えば別のお金として成立する。その理屈と同じことです。もし転生事例に関して配信者説をとったとすると、中の人=VTuberなので、転生しても、VTuberを辞めて実写で活動し始めたとしても、そこに存在するのは常に同一人物です。そうすると、そういう立場にとってVTuberとは何かというと、芸名のようなものです。中の人の別名義といえます。ですので、そういう立場をとると、特にVTuberの文化が新しいというわけではない、ということになるので、VTuberであることの特別さには欠けます。
―中の人とモデルが結びついて初めて制度的存在者として確立するということですが、VTuberのモデルはVTuberの身体であるといえるのでしょうか。
それはまさに鋭いご質問で、私はそのように主張する道を模索したいと思っています。例えば、この議論をする際に重要な事例になるのが、分身ロボットカフェの存在です。世の中にはALS(註2)等の病で、ベッドの上から動けなくなってしまった方々がいらっしゃいます。でも、そういった方々も実際に働きに出て、お客様と触れ合う体験をしてみたいと思われます。でも、自分自身の体は動かせないから、それがなかなか困難という時に、遠隔でロボットを操作すれば良いのではないか、という発想のもと生まれたのが分身ロボットカフェです。患者さんは寝たきりであっても、ロボットを操作することによって、遠い場所にあるカフェでお客様の対応をしたり、実際に料理を運んだりすることができます。言い換えれば、自分の身体が遠隔の地に拡張されているような状況です。このような状況は他にもあって、例えば杖をガシっと地面に引っかけると、自分に直接振動が来たかのような感覚になる。つまり、杖を使う人にとって、杖は身体の一部のようなものです。車椅子なども同様です。身体というのは、生まれつき生えている腕や足などに限らず、そのような道具もまた拡張された身体であるということができます。この関係をVTuberに当てはめてみますと、まず配信者、中の人がいて、その人がパソコンの画面上のモデルとモーションキャプチャー(註3)で連動します。そうすると、患者さんの拡張された身体としてロボットを捉えられるのであれば、配信者、中の人の拡張された身体としてモデルを捉えることが出来るのではないかと考えられます。そうなると、VTuberを構成する当のモデルは、まさにVTuberの身体を構成しているといえるのではないかというのが、今私が考えていることです。
―多種多様なVTuberが存在し、それぞれの配信スタイルがある中、VTuberの投稿する実写の動画(註4)は、画面上にVTuberのアバターが無くとも、私たちはそこに彼らが存在すると認識しています。これについて山野さんはどのように分析していますか?
配信者とモデルが結びつくことによってVTuberが成立するというのが私の立場ですが、この結びつきの要件の一つにモーションキャプチャーがあります。これが少々難しい問題でして。モーションキャプチャーがない現地ロケ等の場合、私の図式立てだとVTuberそのものが成立してるわけではないという判断になります。ではそこに何がいるのかといえば、もちろん中の人がいます。しかし、中の人がいるだけであって、VTuberが一切そこに成立してないと見るのは妥当では無いと感じます。なので私は、”VTuberとしては現実に存在していないけれども、VTuberになれる存在”がいるという見方を取っています。つまり、モーションキャプチャーをひとたび使えば、すぐまたVTuberとして現実化する存在です。それを私はアリストテレスの概念を使って可能態(デュナミス)(註5)と表現し、モーションキャプチャーによる連動を通してVTuberが現に成立してる状態を現実態(エネルゲイア)(註6)と表現しました。そうすると、実写動画に登場するのは、可能態としてのVTuberであるということができます。ただ、これはモーションキャプチャー込みの制度的存在者説の特徴の一つでもあり、弱みの一つでもあります。なぜなら、こうした立場を取ると、モーションキャプチャーの連動が生じていない状態(例えば「タクシーに乗る」、「コンビニに行く」など)の「中の人」の経験を、直接的に「VTuber」の経験として捉えることができなくなるからです。あくまで、「可能態としてのVTuber」の経験という仕方で、一段階クッションを挟んだ言い方になってしまいます。ですが、この問題は、配信者説であれば問題となりません。なぜなら、配信者説は「中の人」をそのまま「VTuber」として捉えるので、それらは直接的にVTuberの経験として記述されるし、実写の動画においても、「ここにVTuber本人がいる」というふうに記述されるだけだからです。これは非常にシンプルな説明であり、配信者説の魅力の一つであるといえるでしょう。
とはいえ、『VTuber学』の第三部においては、哲学者五人が章の執筆を担当し、各人が異なる理論を出しています。そして、それぞれの理論に当てはまるVTuberも異なってくることでしょう。逆にいえば、五つの理論を出すことによって、VTuberの多様な在り方を様々な観点からすくい取ろうとするのが、第三部の執筆者たちの共通のモチベーションです。なので、『VTuber学』の読者のみなさまは、この五つの理論のうち、特に「自分の推しに当てはまる!」という立場をいったん選び取るという形で、最初は良いと思います。ただ、その後は、ご自身なりに統一的なVTuberの理論を考えてみるのも良いかもしれません。そうした試みは、卒業論文として結実する可能性さえあります。
―配信のコメント等で鑑賞者である我々と交流可能なVTuberですが、彼らにとって鑑賞者(リスナー)はどのような存在ですか?
一言でいうと、リスナーとは「呼びかけてくれる存在」だと思っています。VTuberの名前を呼ぶ存在です。そしてその呼びかけに対して、VTuberは応答します。私の議論の一つに倫理的アイデンティティというものがあるのですが、それに従えばVTuberはリスナーからの呼びかけに応答するという責任があり、逆にそれ以外の名前には応答しないという責任がまたあります。もし中の人の名前がチャット欄に書き込まれても、ブロックするか無視しなければならない。あくまでVTuberの名前を呼ばれた時に返事をするという義務の元に自分を置くことで成立するアイデンティティ、それを私は倫理的アイデンティティと呼んでいます。つまり、他者からの呼び声なしには、そういった私が何々であるという倫理的アイデンティティが生じてきません。そのようなアイデンティティを与えてくれるのがリスナーです。だからこそリスナーはVTuberにとって不可欠だと思います。例えばこれがアニメのキャラになると、作者が作った虚構世界の中だけでも成立可能ですので、アニメキャラクターとの違いはここにもあります。
―VRchat(註7)等、我々がアバターを使うシステムとVTuberの違いはなんなのでしょうか?
キャラクター性を立てようとするか否か、というところに基本的な違いがあるような気がします。とある人がVTuberを、「成るVTuber」と「来るVTuber」の二つに分類しました。「成るVTuber」というのはアバター文化の話で、それこそVRchatのようなメタバースの住人にも当てはまります。他にも、有名人がアバターを身にまとい、「VTuberになりました!」と公言するパターンもこれです。そして、もう一方の「来るVTuber」に関しては、要は架空の電脳世界みたいなものが舞台に設定されていまして。「来るVTuber」は、そのようなバーチャルな世界からこちらにやって来て配信活動をしているという体をとっています。例えば、出身を聞かれたら「バーチャル東京です」と答えるというような。この二つは技術こそ同じでも、提示の仕方が全く異なっています。例えば、さくらみこさんという有名なVTuberの方がいらっしゃるんですけど、彼女が『パラソーシャル』という作品を配信で行った時に、興味深いことを言っていたんです。そのゲームは、VTuber活動を行う女性、つまりVTuberの中の人が主人公なのですが、その時さくらみこさんが、「人間の方がVTuberをやるタイプと、電脳世界の者がVTuberをやるタイプがある」と言うんです。つまり、このような発言をすることで、自分は後者のタイプのVTuberであると言っています。これはまさに来るタイプのVTuberの典型的な言説です。このように「来るVTuber」として自己提示するのか、単に「成るVTuber」として自らを表明していくのかという差は、配信実践の中で大きな違いを生むだろうと思います。
―メタバース社会において、我々がVTuberとなる日は来るのでしょうか?
これからほとんどの人がアバターを持つだろうから、 「VTuber」という言葉の意味がなくなるという見立てを取る方もいらっしゃいます。VTuberであることが特別ではなくなるから、「VTuber」という言葉をあえて使う必要が無くなるのではないか、と。確かに一億総アバター時代が到来する、などという話はよくあります。皆がアバターで違う体を拡張して持ち、メタバースの中でアバターの姿を通して交流ができる。実際、これは現に多くの人々が実践しています。しかし、この文化の規模が更に拡大しても、現在VTuberと呼ばれる人々の存在が薄まり、特別なものでなくなるのかというと、そういうわけではないと思います。特別な存在ではある。ただ、その人たちがバーチャルな存在であるということは特別ではなくなるかもしれません。でも、現に我々はリアルな身体を持っていて、アイドルの方たちもリアルな身体を持っていますが、そうであっても、今アイドルとして活躍している方たちがすごく特別な存在であることには変わりません。それと類似しています。つまり、リアルアイドルが我々と共通のリアルな体を持っているからといって普遍的な存在にはならないのと同じ理由で、私たちがアバターを所有するようになっても、VTuberのタレント性は失われないと思います。
註1 ポール・リクール:主にフッサール現象学の研究から哲学者としてのキャリアを出発し、その後解釈学・物語論・歴史哲学などの幅広い分野で業績をあげた。主著として、『時間と物語』(一九八三-八五年)、『他としての自己自身』(一九九〇年)、『記憶・歴史・忘却』(二〇〇〇年)など。
2 ALS:筋萎縮性側索硬化症。神経線維が破壊されて筋肉が萎縮していく進行性の難病。
3 モーションキャプチャー:三次元空間における人体や動物の動きをデジタルデータとしてコンピューターに取り込む手法。人間の動きを読み込む場合、動作を行う人間の手足や頭、関節などにセンサーを取り付け、このセンサーの動きを専用の機器によって連続的にデータとして取り込んでいく。
4 VTuberの投稿する実写の動画:VTuberのアバターが登場せず、実際の風景と音声のみで成り立つ動画。中の人の顔や身体は映さずに、現実世界での散歩動画や旅行動画を投稿したり、料理配信を行うVTuberは珍しくない。また、中の人の身体を動画で映すVTuberも今日においてはありふれた存在であり、その露出のパターンも、「(手袋をした状態で)中の人の手だけを実写で映す」という控えなもの(代表例:「ホロライブ」、「にじさんじEN」など)から、「顔から下はすべて実写で映す」という大胆なもの(代表例:「おめがシスターズ」、「湖南みあ」、「天羽しろっぷ」)までさまざまである。また、「七海うらら」や「花譜」/「廻花」のように、バーチャルの姿と実写の姿を両方使って活動する者も存在する。
5 可能態(デュナミス):アリストテレス哲学で、生成・発展を説明する重要概念。終局目的たる現実態(エネルゲイア)に先だつ可能的な段階。例えば、最終的に家具となる材木。
6 現実態(エネルゲイア):アリストテレス哲学で、生成の過程の終局として実現する姿。
7 VRchat:コンピューター内に構築された三次元の仮想空間(メタバース)の中で、アバターを使って他者と交流できるサービス。