我々人間に備わった好奇心。何かが気になる。何なのか気になる。なぜなのか気になる。うずうずする。そして考える。ワクワクする。人は好奇心に従って、未知なることへと突き進む。今回インタビューを行なったのは、オリンピックの陸上400mハードルで二度メダリストとなった為末大さんだ。徹底的に自分と向き合い、試行錯誤して走りを磨くその姿勢から、彼は「走る哲学者」と呼ばれていた。そんな彼の輝かしい競技人生の根底には、常に好奇心があったという。競技引退後も発信を続けている彼がnote、YouTubeを始めとするSNSや著書などで繰り広げる思考の数々には、「人間とは何か」を知りたいという彼の強い好奇心が表れている。彼は何を考えて走っていたのか。今何を追い求めているのか。どこまでいこうとしているのか。話を伺う中で見えてきたのは、走ることや体を動かすことを極めた為末さんにしか語れない「人間」だった。
我々も考えよう。人間とは何か。好奇心は常にうずうずしている。
〈為末大〉
Deportare Partners代表。
1978年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2024年4月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作は『Winning Alone』『諦める力』など。(本人提供)
―現在の活動を教えてください。
半分ぐらいは個人の活動として、メディア出演やYouTubeへの動画投稿などをしています。もう半分は会社経営です。スポーツを社会にもっといろいろな形で広げられないかなと思っていて。世の中には野球やサッカーのような、エンタメとして見て楽しむプロスポーツもあるんですけど、そうではなくて、多くの人が実際に参加できるようなスポーツを社会に増やすための事業をやっています。
ー陸上競技を始めたのはいつですか。
陸上を始めたのは小学3年生ぐらいです。姉が陸上クラブに入ったときに、その練習について行ったのがきっかけですね。他の競技はそんなに上手くできた感じはしなかったんですけど、走るのは周りの子と比べてすごく速かったので、自然と陸上を続けることになりました。
―中学、高校ともに短距離種目を主軸にしていた中で、400mハードル走に転向したのはなぜですか。
ハードルなら世界でも比較的勝負できるかもしれないと思ったのが大きかったです。高校3年生のとき初めて世界大会に出て、100m、400m競走で世界一になるのはちょっと厳しいなと感じ、400mハードルへの転向を決めました。
―種目を変えるという決断は、今後の競技人生を考えるとかなり勇気がいることだったと思います。
今考えると結構大きな選択でしたが、当時はあまりそうは思っていませんでした。100mや400mは好きだったので悩みはしたんですけどね。でも冷静に考えたときに、やっぱり400mハードルでないと世界では勝負できないんじゃないか、という気がして。端的に言えば、世界一になりたいっていう気持ちが勝ったんです。
―為末さんはコーチをつけずに練習していましたが、どうやってトレーニングを考えていたのですか。
本が好きだったので、陸上競技の背景にある理論について本を読んで学んでいったんです。するとだんだん、それを自分の思うように実践してみたいという気持ちが出てきたので、コーチをつけなくなりました。でも理屈を理解することと実践することは全く違うから、最初はうまくいかない。結局、東海大学にいる高野進さん(註1)に話を聞きながら、一から練習を作り直したような感じです。そうしているうちに、走り方にもトレーニングにも、自分なりに理論を応用できるようになっていきました。
―練習時と本番時の走りに、感覚的な違いはありますか。
やっぱり本番は普段とは違うので、興奮してパフォーマンスが良くなったり、逆に緊張して体が固まったりすることがありますね。練習のときには、本番のようなプレッシャーはないので、比較的その時々の調子がそのまま走りに出るっていう感じです。それから、試合のときはとにかく何も考えないことが大事なのですが、練習のときには目的を意識することが大事なので、走るたびに、次は何のために走るのか、何に気をつけるのかっていうのを考えながらやっていました。
―プレッシャーを感じる試合の場で何も考えないようにするのは、相当難しそうですね。
そうですね。それに、意識的に考えないようにすることと、本当に何も考えないでいられることは違っていて、何も考えないで走れるようになるのは相当後です。長年経ってくると、ようやくそういう無我の世界がなんとなく分かるような気がします。
やっぱり本番は普段とは違うので、興奮してパフォーマンスが良くなったり、逆に緊張して体が固まったりすることがありますね。練習のときには、本番のようなプレッシャーはないので、比較的その時々の調子がそのまま走りに出るっていう感じです。それから、試合のときはとにかく何も考えないことが大事なのですが、練習のときには目的を意識することが大事なので、走るたびに、次は何のために走るのか、何に気をつけるのかっていうのを考えながらやっていました。
―プレッシャーを感じる試合の場で何も考えないようにするのは、相当難しそうですね。
そうですね。それに、意識的に考えないようにすることと、本当に何も考えないでいられることは違っていて、何も考えないで走れるようになるのは相当後です。長年経ってくると、ようやくそういう無我の世界がなんとなく分かるような気がします。
―その無我の世界にはどうやってたどりついたのですか。
自分の体をどうやって扱えば速く走れるかを追求していくうちに、あるときふと、何も考えないで体がただ動くような感覚があって。そこで、この走り方が一番いいんだってことにはっと気がついてしまった。コントロールしていこうとした先で、コントロールの放棄が最も良かったという矛盾に気づく感じですね。ただ、意識して考える自分こそが自分という近代的な人間観からすると、何も考えないで体に任せるのが最も良い状態であるということは、ちょっと受け入れがたい。それでも、最終的には確信を持って無我の状態が一番良いのだと思い至りました。
―為末さんにとって走ることの楽しさはなんですか。
モチベーションの話と技能的な話があります。モチベーションに関して言うと、 最初に感じる走ることの楽しさは、体が動くことそのものに対しての高揚感みたいなものだと思います。走ること自体が目的で、ただ楽しいから走る。でもそれがだんだん、みんなの前で自分の技能を示せて、賞賛を得られることが楽しいと思うようになってきます。 自分の走りに順位がつくことが楽しくなって、それがモチベーションになるんです。体を動かす楽しさと賞賛を得る楽しさはがシームレスに繋がっていて、かと言って、次のフェーズに行くと前のフェーズがなくなるわけではないですね。技能的な話でも、最初は技術的なことは何も分からないので、ただただシンプルに走ることが楽しいというフェーズから始まります。そして、より速く走る方法を追い求めていくうちに、探求することの楽しさが出てくるんです。基本的な人間のランニングは、体へのダメージを和らげるために自然と着地の衝撃を吸収するようにできています。その一方で、速度を上げるためには地面からの反発を活かさないといけないので、着地の衝撃を吸収しない走り方に作り変えなきゃいけないんです。そのための技能的な訓練を積んで、 より速く走れるようになっていくことが面白い。楽しさの中には、なんで走るの?とどうやって走るの?という二つの面から見た楽しさがあるように思います。
―走ることを追求してきた為末さんが引退後、解説者やコーチではなく経営者としての道を選んだ理由は何ですか。
とにかく陸上と関係ないことをやってみたかったのが大きいですね。陸上が大事だという一点張りでもいいんですけど、私の場合は陸上にこだわり続ける自信がなかったので、陸上の他にいろいろできるようになっていないとなって思ったんです。それから、好奇心が強いので、引退後の人生をもっと面白くしたいという気持ちもありました。
―会社経営の他に、YouTubeへの動画投稿も精力的に行っていますね。
今YouTubeでは、探究学習をやっています。一つの側面だけを見ていてもよく分からないことをいろんな角度から調べていくと、だんだん実態が明らかになっていくというのが面白いんです。例えば厚底シューズの話であれば、選手、トレーナー、バイオメカニクスの有識者、そして実店舗の店員に話を聞きに行く。最後にそれらをまとめて、厚底シューズが陸上界に起こしたインパクトは一体何なのかを考える。他にも膝の痛みについて調べようと考えています。なぜ膝が痛くなるのか。どうすれば膝の痛みは止まるのか。そもそも痛みとは何か。そういう、知識として体系化されていないことにいろんな角度から光を当てて、対象を立体的に浮かび上がらせていくことがすごく楽しいです。そんなふうに、あるスポーツを通じて人間の理解を深めていくっていう探究学習的な活動を、いろんな人を巻き込みながらやっています。振り返ると、私の競技人生はほぼこれだった。実際、選手だったときにも調査やインタビューみたいなことをやっていたんですよ。栄養学のことを知りたいと思ったら、栄養学の本を読んで、栄養学に詳しい人に話を聞きにいって、自分なりに何を食べたらいいかを考える、だとか。今は走ることによってではなく、YouTubeの活動を通して探究学習をやっています。
―ずっと好奇心が活動のベースにあるのですか。
そうですね。なぜ走っていたのかを考えたとき、私は、走ることで人間について理解したかったんです。人間について考える上で陸上競技の良いところは、二足移動を極めるということなんですね。二足歩行は、我々の進化の過程にあった大きな契機の一つだと思うんですよ。それで両手がフリーになって、物が掴めるようになって、道具が作れて。だから、二足歩行があらゆることの出発点じゃないかと思うんです。それに、歩行ってものすごくエネルギー効率がいいんですよ。足自体がふりこの構造になっているので遠くまで歩いても疲れにくい。かつ歩くときにふくらはぎの筋肉が収縮することで、血液が下にたまらずに上まで押し返される。本当によくできてるなと思います。
やっぱり私は人間に興味があるんです。この先も走ることに関して追求する中で、人間とは何かについて考えていきたいと思っています。それに、これから人工知能が出てきて、いよいよ人間らしさってなんだろうって考えるときに、この身体性、歩行や走行による移動は、人間らしさを支える一つの大きなポイントになるんじゃないかなと思います。今は、歩くこと、走ることが人間にとってどういう意味があって、それをより良い社会づくりにどう役立てるかに興味がありますね。
―人間らしさとはなにかという問いに対して、現段階での答えは何ですか。
フランスの哲学者のメルロ=ポンティ(註2)の唱えた「自分を認識するためには知覚が必要である」という考えがあるんです。目で見たり、手で触ったりして外の世界を認識することによって、自分と自分以外のものとの違いに気づき、それによって自我が芽生えていくという考えです。だから体が大事なんだという話があるんですけど、生物学者、認識学者のフランシスコ・ヴァレラ(註3)は「先に体があるんじゃなくて、先に動きがあったんだ」と言うんです。自分が動くことで、周りの景色が変わったり、体に何かが触れたり、いわば外の世界との接触が起こる。私たちが自分の体を認識するにはそういう接触が必要で、そのきっかけは環境の側から来るんじゃなくて、自分たちが動くことで生まれる。その接触によって自分の体を認識し、自我が芽生えていったんじゃないかという、ざっくり言うとそんな話です。周囲の世界と接触することは動物全体が持っている要素ですが、自分を意識できること、もっと言えば知性や理性があることは、動物と人間を隔てる人間の大きな特徴だと思います。
ーでは、人間らしさとは自我があることや、知性や理性があることなのでしょうか。
AIがその知性や理性みたいなものを獲得してきて、どんどん人間に迫ってきている気がするんです。だから、動物にもAIにもないものが人間らしさだと言える。それは簡単に言うと、情緒なんじゃないかと思います。紅葉を見てきれいだと思ったり、そう思う自分自身についてあれこれ考えたりすることが、人間らしさを考える上ですごく重要な気がするんです。生存に関係ないような出来事の中から何か意味を見出だそうとして、勝手に自分の中に生じていく情緒みたいなものが、人間らしさなのかもしれないと考えています。これらのことを踏まえて、さらに、AIにはない人間の身体性と情緒が混ざっているエリアに、人間らしさの根源があるような気もしていて。 やっぱり運動する、歩く、走るという身体性や、何かをきれいとか切ないと思う情緒は人間の中のすごく大きな領域なんじゃないかなと思います。自分の中ではまだまとまってないんですけど、その辺りのことにとても興味がありますね。
(註1)元陸上競技選手。現在は東海大学で短距離走の指導をしている。男子400m競走の元日本記録保持者である。
(註2)フランスの哲学者。主に現象学の発展に寄与した。西洋近代哲学史の上で、身体の問題を主題化した。
(註3)チリ出身の生物学者、認知科学者。現象学と認知科学を交差させた研究を行なった。理論生物学上の理論であるオートポイエーシス理論の提唱で知られる。