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【コラム】こうして、これからも。

2022 11/05
VOL. 抵抗 コラム
ありのまま
2022年11月5日
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時として、人は受け入れがたい現実に抵抗しなければならない。

——カメラを始めたきっかけはなんですか。    

大学でカメラのサークルに入ったのがきっかけです。でもそこから写真を始めたというわけではなくて、もともとスマホとかではよく写真を撮っていました。

 なぜ彼がカメラのサークルに入ったのか、その理由は忘れてしまった。

写真を撮ることは好きだが、特別な感情があったわけではない。おそらく、他に入りたいサークルが無かったとか、新歓が楽しかったとか、そんなところだろう。彼はそのサークルでFという人物に出会った。

——写真そのものへの魅力は以前から感じていたということですか。

そうですね、いつからかはわからないんですけど。でも、なんなんでしょう、絵画とか音楽とか、いろんな芸術の形態があるうちの1つとして写真が好きというわけではないんです。

写真でなにかを表現しようと思ったことはなくて、目に写った光景をただ“ありのまま”に収めたいという気持ちが強くあります。

 ”ありのまま”は、彼の写真論を理解するうえで最も重要なキーワードだ。彼とFは特段仲が良かったわけではない。同じサークルの、数ある友達のなかの1人。Fもそう思っていたはずだ。

——カメラについてのこだわりはありますか。

 それが無いんです。“ありのまま”に撮れるなら正直なんでもいいというか、性能にこだわりはないですね。

正直、スマホでも変わらないと思っています。カメラの方が多少撮りやすいというぐらいで。サークルに入ったときに買ったカメラを今も使い続けていて、その1台しか持ってないですね。

  今、彼はカメラを2台持っている。

——“ありのまま”に撮るとはどういうことですか。

 俺が目で見た世界を、見たようにそのまま写真に収める、それに尽きます。カメラの性能にこだわりがないのはそういうことで、技術的に手を加えるとしたら、俺が見たままに近づくように光を調整するくらいですね。

 写真としてより良く見せようと光や角度を調整することを、彼は忌避している。彼によると、そのような調整を経て撮られた写真は、撮影者が見たいように見た世界、恣意的に歪められた世界を写し出しているという。

大学時代に一度だけ、彼とFは写真を撮る姿勢について意見がぶつかったことがある。“ありのまま”に写真を撮る彼に対し、見たいように世界を見る、撮りたいように世界を撮るのがFだった。酒の席でのいざこざでしかなかったが、2人は真剣だった。Fは言った。

「どうして“ありのまま”に写真に収めようなんて考えるんだ。俺にはできない。写真だからこそ理想の世界が作れるんじゃないか」

——“ありのまま”に撮る上で大事なことはなんですか。

 被写体を探そうとしない、ということです。俺が被写体に良さを見出すのではなく、良い被写体に出会うという感覚があるんですよね。だから、「こういうものを撮ろう」とか、もっと言えば「写真を撮ろう」とか思っていると、良い被写体には出会えないことが殆どです。

自然と出てきた、被写体への「良い」「撮りたい」という気持ちが重要で、街を歩いているときとか、何気ない日常の中での偶然の出会いを大切にしています。被写体の良さは被写体そのものにあって、俺がそれを発見して、“ありのまま”に写真に収めるというそれだけなんです。 

 極端なことをいえば、彼が重視するのは被写体との出会いであって、写真に収めることは後付けの作業に過ぎない。ちょうど一週間前、彼はFと久しぶりに再会した。「久しぶりに飲もう」とFから彼に連絡が来たのだ。サークルを引退して以来だから約5年ぶりだろうか。Fは何も変わっていなかった。サークルでの思い出、お互いの近況、今だからこそ言える小さな秘密など、懐かしい人との会話は実はありきたりなものばかりだ。別れ際、突然Fは彼にカメラを手渡した。大学時代にFが使っていた見覚えのあるカメラだった。

 「お前に持っておいてほしいんだ」 

 「どうして?」

 「それは上手く言えない。持っておいてほしい」

 意味がわからなかった。なぜカメラなんか手渡すのだろうか。カメラの話なんてしなかったはずだ。理由を聞いても、Fは「持っておいてほしい」と頼むばかりで、明確に答えてくれない。彼はFが理解できず、困惑していた。とはいうものの、別にカメラを持っておくことは難しいことじゃない。強く断る理由はない。

 「いつ返したらいいんだ」

 「……」

 「また連絡してほしい」

そうして彼はFと別れた。 

——ご自身にとって“ありのまま”は揺るぎないテーマなんですね。

 そうですね。ずっと一貫してます。

 Fはこのカメラを渡すために会ったんだと、今になって思う。

——ですが、それには限界があると思います。

 というと、どういうことですか。

 でも、なぜFが俺にカメラを渡したのか、それは今でもわからないままだ。

——鑑賞者の立場になるとどうですか。

 鑑賞者の立場、ですか。

 思い出した。酒の席で俺とFが言い合ったあのとき、1つだけ意見が合致したことがある。それは、写真を見る人のスタンスについてだった。鑑賞者は自由に写真を見ていい。“ありのまま”を写した俺の写真にしろ、見たいものを写したFの写真にしろ、それをどう受け取って何を感じるかは鑑賞者の自由だ。写真の枠の中にあるもの、それは所詮「目で見えているもの」にしかすぎない。鑑賞者はそれをもとに想像を膨らませることができる。そこに撮影者は介入できない。俺とFはそこで結託したような気がした。

——鑑賞者の立場に立ったとき、ご自身も見えないものを想像することはありますか。

 そうですね。写されたものだけで写真を理解することができないときに、想像するんだと思います。俺にとっては難しいことです。

  想像せざるを得ないときというのは、見えているものだけで理解することができないときだ。そしてそのときは突然やってきた。Fが自殺したと俺が聞いたのは昨日の昼過ぎ、サークルの別の友人の電話からだった。自殺の理由は誰にもわからないらしい。電話を切ったあとしばらく、Fが自殺したという事実を、素直に受け入れることができなかった。ただただ理解ができなかった。やっぱり嘘かと思って折り返したが、事実は変わらなかった。Fは自殺した。

——”ありのまま”に見るだけではわからないことがあるということですね。

 そうです。俺はあなたがわからないんです。 どうして自殺なんかしたんですか。どうして俺にカメラを渡したんですか。この変わらない事実を、現実ただそのものとして、”ありのまま”に受け入れることができないんです。俺はあなたがわからないんです。

 Fはもうこの世にいない。なぜ自殺したのか。なぜカメラを渡したのか。俺はFに聞くことはできない。なぜならこの世にいないのだから。だから俺はFを想像するしかない。

——私はもうこの世にいません。

 あなたはもうこの世にいません。俺と再会したとき、あなたは何も変わっていませんでした。でも、なにか辛いことでもあったんじゃないですか。俺になにか言うべきことがあったんじゃないですか。もしかしたらできたことがあったのかもしれないのに。あのとき俺は、よくわからないままあなたのカメラを受け取ってしまいました。その理由をしっかり聞いておくべきでした。問いただすべきでした。これらの答えは、俺が自分で見つけるしかなさそうです。

 Fがもうこの世にいないということは、俺は自由にFを想像できるということだ。なぜ死んだのか。なぜカメラを渡したのか。それがわからないからこそ、俺は自由に想像する。その想像に合わせて、Fという人間の姿は変化し、そうして俺はFを受け入れる。見えないものを想像するとはこういうことだ。

——あなたは私のカメラを持っています。

 受け取ったこのカメラが、俺のわだかまりを解くヒントになるかもしれません。明日どこかへ行って、このカメラで写真を撮ってこようと思っています。あなたががあのとき言ったように、見たいものを見たいように見て、撮りたいものを撮りたいように撮る。そうしたら、俺はあなたに近づけるかもしれません。どうでしょうか。

 Fが自殺したこと。Fが俺にカメラを渡したこと。その答えは見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。そもそも答えなんて無いのかもしれない。答えは俺が作り出すものだ。もうFはいないのだから。だからこそ、俺はFを想像する。これがFにとっての救いになればいいと思っている。いや、これは俺のための救いなのかもしれない。いや、いや、もういい、Fはもういないんだった。俺にはまだ時間が必要らしい。

 今日は遅いからもう寝よう

受け入れがたい現実に直面したとき、それが抑圧になったとき、人は抵抗する。

しかし、その抵抗が必ずしも正しいものとは限らない。もし自らの抵抗の形に行き詰まったなら、違う抵抗の形を模索しなければならない。抑圧が完全に消えない限り、抵抗が終わることはない。

考えながら、苦しみながら、そのかたちを変えながら、人は抵抗し続ける。

今日を乗り越え、明日を迎える。こうして、これからも。

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