時として、人は受け入れがたい現実に抵抗しなければならない。
——カメラを始めたきっかけはなんですか。
大学でカメラのサークルに入ったのがきっかけです。でもそこから写真を始めたというわけではなくて、もともとスマホとかではよく写真を撮っていました。
なぜ彼がカメラのサークルに入ったのか、その理由は忘れてしまった。
写真を撮ることは好きだが、特別な感情があったわけではない。おそらく、他に入りたいサークルが無かったとか、新歓が楽しかったとか、そんなところだろう。彼はそのサークルでFという人物に出会った。
——写真そのものへの魅力は以前から感じていたということですか。
そうですね、いつからかはわからないんですけど。でも、なんなんでしょう、絵画とか音楽とか、いろんな芸術の形態があるうちの1つとして写真が好きというわけではないんです。
写真でなにかを表現しようと思ったことはなくて、目に写った光景をただ“ありのまま”に収めたいという気持ちが強くあります。
”ありのまま”は、彼の写真論を理解するうえで最も重要なキーワードだ。彼とFは特段仲が良かったわけではない。同じサークルの、数ある友達のなかの1人。Fもそう思っていたはずだ。
——カメラについてのこだわりはありますか。
それが無いんです。“ありのまま”に撮れるなら正直なんでもいいというか、性能にこだわりはないですね。
正直、スマホでも変わらないと思っています。カメラの方が多少撮りやすいというぐらいで。サークルに入ったときに買ったカメラを今も使い続けていて、その1台しか持ってないですね。
今、彼はカメラを2台持っている。
——“ありのまま”に撮るとはどういうことですか。
俺が目で見た世界を、見たようにそのまま写真に収める、それに尽きます。カメラの性能にこだわりがないのはそういうことで、技術的に手を加えるとしたら、俺が見たままに近づくように光を調整するくらいですね。
写真としてより良く見せようと光や角度を調整することを、彼は忌避している。彼によると、そのような調整を経て撮られた写真は、撮影者が見たいように見た世界、恣意的に歪められた世界を写し出しているという。
大学時代に一度だけ、彼とFは写真を撮る姿勢について意見がぶつかったことがある。“ありのまま”に写真を撮る彼に対し、見たいように世界を見る、撮りたいように世界を撮るのがFだった。酒の席でのいざこざでしかなかったが、2人は真剣だった。Fは言った。
「どうして“ありのまま”に写真に収めようなんて考えるんだ。俺にはできない。写真だからこそ理想の世界が作れるんじゃないか」
——“ありのまま”に撮る上で大事なことはなんですか。
被写体を探そうとしない、ということです。俺が被写体に良さを見出すのではなく、良い被写体に出会うという感覚があるんですよね。だから、「こういうものを撮ろう」とか、もっと言えば「写真を撮ろう」とか思っていると、良い被写体には出会えないことが殆どです。
自然と出てきた、被写体への「良い」「撮りたい」という気持ちが重要で、街を歩いているときとか、何気ない日常の中での偶然の出会いを大切にしています。被写体の良さは被写体そのものにあって、俺がそれを発見して、“ありのまま”に写真に収めるというそれだけなんです。
極端なことをいえば、彼が重視するのは被写体との出会いであって、写真に収めることは後付けの作業に過ぎない。ちょうど一週間前、彼はFと久しぶりに再会した。「久しぶりに飲もう」とFから彼に連絡が来たのだ。サークルを引退して以来だから約5年ぶりだろうか。Fは何も変わっていなかった。サークルでの思い出、お互いの近況、今だからこそ言える小さな秘密など、懐かしい人との会話は実はありきたりなものばかりだ。別れ際、突然Fは彼にカメラを手渡した。大学時代にFが使っていた見覚えのあるカメラだった。
「お前に持っておいてほしいんだ」
「どうして?」
「それは上手く言えない。持っておいてほしい」
意味がわからなかった。なぜカメラなんか手渡すのだろうか。カメラの話なんてしなかったはずだ。理由を聞いても、Fは「持っておいてほしい」と頼むばかりで、明確に答えてくれない。彼はFが理解できず、困惑していた。とはいうものの、別にカメラを持っておくことは難しいことじゃない。強く断る理由はない。
「いつ返したらいいんだ」
「……」
「また連絡してほしい」
そうして彼はFと別れた。
——ご自身にとって“ありのまま”は揺るぎないテーマなんですね。
そうですね。ずっと一貫してます。
Fはこのカメラを渡すために会ったんだと、今になって思う。
——ですが、それには限界があると思います。
というと、どういうことですか。
でも、なぜFが俺にカメラを渡したのか、それは今でもわからないままだ。
——鑑賞者の立場になるとどうですか。
鑑賞者の立場、ですか。
思い出した。酒の席で俺とFが言い合ったあのとき、1つだけ意見が合致したことがある。それは、写真を見る人のスタンスについてだった。鑑賞者は自由に写真を見ていい。“ありのまま”を写した俺の写真にしろ、見たいものを写したFの写真にしろ、それをどう受け取って何を感じるかは鑑賞者の自由だ。写真の枠の中にあるもの、それは所詮「目で見えているもの」にしかすぎない。鑑賞者はそれをもとに想像を膨らませることができる。そこに撮影者は介入できない。俺とFはそこで結託したような気がした。
——鑑賞者の立場に立ったとき、ご自身も見えないものを想像することはありますか。
そうですね。写されたものだけで写真を理解することができないときに、想像するんだと思います。俺にとっては難しいことです。
想像せざるを得ないときというのは、見えているものだけで理解することができないときだ。そしてそのときは突然やってきた。Fが自殺したと俺が聞いたのは昨日の昼過ぎ、サークルの別の友人の電話からだった。自殺の理由は誰にもわからないらしい。電話を切ったあとしばらく、Fが自殺したという事実を、素直に受け入れることができなかった。ただただ理解ができなかった。やっぱり嘘かと思って折り返したが、事実は変わらなかった。Fは自殺した。
——”ありのまま”に見るだけではわからないことがあるということですね。
そうです。俺はあなたがわからないんです。 どうして自殺なんかしたんですか。どうして俺にカメラを渡したんですか。この変わらない事実を、現実ただそのものとして、”ありのまま”に受け入れることができないんです。俺はあなたがわからないんです。
Fはもうこの世にいない。なぜ自殺したのか。なぜカメラを渡したのか。俺はFに聞くことはできない。なぜならこの世にいないのだから。だから俺はFを想像するしかない。
——私はもうこの世にいません。
あなたはもうこの世にいません。俺と再会したとき、あなたは何も変わっていませんでした。でも、なにか辛いことでもあったんじゃないですか。俺になにか言うべきことがあったんじゃないですか。もしかしたらできたことがあったのかもしれないのに。あのとき俺は、よくわからないままあなたのカメラを受け取ってしまいました。その理由をしっかり聞いておくべきでした。問いただすべきでした。これらの答えは、俺が自分で見つけるしかなさそうです。
Fがもうこの世にいないということは、俺は自由にFを想像できるということだ。なぜ死んだのか。なぜカメラを渡したのか。それがわからないからこそ、俺は自由に想像する。その想像に合わせて、Fという人間の姿は変化し、そうして俺はFを受け入れる。見えないものを想像するとはこういうことだ。
——あなたは私のカメラを持っています。
受け取ったこのカメラが、俺のわだかまりを解くヒントになるかもしれません。明日どこかへ行って、このカメラで写真を撮ってこようと思っています。あなたががあのとき言ったように、見たいものを見たいように見て、撮りたいものを撮りたいように撮る。そうしたら、俺はあなたに近づけるかもしれません。どうでしょうか。
Fが自殺したこと。Fが俺にカメラを渡したこと。その答えは見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。そもそも答えなんて無いのかもしれない。答えは俺が作り出すものだ。もうFはいないのだから。だからこそ、俺はFを想像する。これがFにとっての救いになればいいと思っている。いや、これは俺のための救いなのかもしれない。いや、いや、もういい、Fはもういないんだった。俺にはまだ時間が必要らしい。
今日は遅いからもう寝よう
受け入れがたい現実に直面したとき、それが抑圧になったとき、人は抵抗する。
しかし、その抵抗が必ずしも正しいものとは限らない。もし自らの抵抗の形に行き詰まったなら、違う抵抗の形を模索しなければならない。抑圧が完全に消えない限り、抵抗が終わることはない。
考えながら、苦しみながら、そのかたちを変えながら、人は抵抗し続ける。
今日を乗り越え、明日を迎える。こうして、これからも。