夜を謳歌する人々の熱が引いた少し後。また彼らが動き出し、街が賑わい始める少し前。どんなに栄えた繁華街でも束の間の静寂に包まれる時間帯が早朝だ。人混みによるカモフラージュがなくなって街が剥き出しになった時、そこには何が映し出されるのだろう。
午前5時40分。渋谷駅に始発で降り立った。言わずと知れた日本有数の繁華街。日々ものすごい数の人が、人生が交錯する街。騒々しく、雑多で、気を抜いた途端に人混みで私たちを飲み込む街。そんな渋谷も早朝となれば、昼夜のいわゆる“渋谷”として私たちが想起するような姿とは大きなギャップを見せた。
一日に50万人、一度の青信号で3000人が横断するとも言われる、スクランブル交差点。昼夜は人で溢れかえる渋谷のシンボルも、この時間となれば人の往来はまばらだ。集団行動さながらの絶妙なすれ違いもこの時間では見られない。40秒弱の青信号の間で、交差点の中央で立ち止まって全方位にぐるりとカメラを向けることもできた。別に悪いことをしているわけではないのだが、交差点を自分が思った通り動き回ることができるのはなんだか違和感があって落ち着かない。
「のまれる」と思いながらも、その人混みに紛れることで安心していたのかもしれない。車も行き来してはいたが、そのほとんどがこの街で夜を過ごした人々を乗せたタクシーだ。耳に残る宣伝文句を流す求人トラックは走っていないし、ビルの壁面の巨大スクリーンにも広告は流れていない。人工的な音と光が削ぎ落とされた早朝の渋谷は、想像以上に暗くて静かだ。
人通りも少なく、過度に飾り立てられていない早朝の渋谷を歩いていると、街の細部における解像度が上がったように感じた。特に印象的だったのが、至る所に人々の営みの「痕跡」が見られたことだ。食べかけのカップ麺や飲みかけのペットボトル、インクの剥げたレシート、マスコットキーホルダーから血痕(!)まで。それら自体は無機質であるはずなのに、昨日渋谷にいた人の息遣いが感じられるような、人となりが窺えるような、そんなものがたくさん残っている。
西口のモヤイ像の前にお供えするかのように一本だけ置かれたビールの缶。誰かを待っていたのか、ハチ公前広場の東急跡地の壁際に数本まとまって落ちていたタバコの吸い殻。階段に飛び散っている赤い斑点。これらも全て、この街に誰かが残していった「痕跡」だ。普段は人混みに隠れてしまい見逃していたのかもしれない。
街に残されたものの背景に透けて見える情報は不確かで、あくまで想像することしかできない。しかし確かに形を保ち、ここに誰かがいた、何かをしていた「痕跡」としてありありと残っていた。
「痕跡」の写真を撮っていると、稀にすれ違う人には、怪訝そうな目で見られた。それもそうだ。言ってしまえばビールの缶や吸い殻なんかは、街の景観を乱すポイ捨てされたゴミに過ぎない。でも羞恥心より好奇心が勝るほどに、街に残された「痕跡」はなぜだか興味を惹かれるものだった。
世の中には好んで「落とし物」を写真に収める人々がいる。彼らがそれに惹かれる理由は様々なのだが、そのうちの1つに「本来あるべきではない場所に置いていかれた物に共感するから」という話を聞いたことがある。これは「痕跡」にも通じるところがありそうだ。街で見た「痕跡」も、本来ならゴミ箱に入っているはずだったもの、買った人の手に握られているはずだったもの、人間の体内にあるはずだったもの、然るべき場所ではないところに放置されているものばかりだ。そこに哀愁を感じたり、自らの境遇と重ね合わせて特別な感情を抱く、ということは理解できる。
だが私はまだ他に理由がある気がした。自分の眼で見に行ったからこその理由が。これらの「痕跡」を見つめたのは朝だった。朝という時間帯の持つ何かが、街に落ちているものに惹かれる理由に寄与しているような気がしたのだ。
なぜ私は「痕跡」に惹かれたのだろうか。ゴミだと言われてしまえばそれまでなのに、なぜ興味深いと感じたのだろうか。それは、それらが「朝が来ることで奪われたもの」の「痕跡」であるからだと思うのだ。私たちが普段意識することのない、朝の二つ目の顔がそこには映し出されていた。
私たちは朝を「いいもの」だと思っている節がある。それは五感を心地よく刺激する朝の印象によるところも勿論あるし、朝というもの自体が持つ普遍性によるところも大きいのではないかと思う。朝は毎日決まって訪れる。「必ず朝は来る」という表現があることからもわかるように、その圧倒的な普遍性は時に希望の象徴として捉えられる。昨日がどんな一日であれ、明るい光で私たちを包み込み、今日という日を始める活力を与えてくれる。朝の一つ目の顔は優しいものだ。
しかし街に残されている「痕跡」は、朝の訪れが奪っていったものを感じさせた。往々にして、人は何かしらの目的を持って街を訪れる。とりわけ夜の渋谷には、非日常を求める人々が沢山やってくる。何かを得るため、何かから逃れるため、何かに紛れるために。
しかしどんなに夜にしがみついても、再び朝は来る。来てしまう。それまでに積み重ねられたものがリセットされ、高まった熱気は冷めていく。人々は否応なしに日常に引き戻される。それは時として残酷な仕打ちになりうるだろう。「1日のスタートに間に合わなければならない」という焦り、「再び1日を始めなければならない」という倦怠、「もう少し非日常にいたい」という未練。朝の訪れに向けられた感情が、街に置き去りにされたものに隠れている。
「痕跡」に貼り付く感情は、本来あるべきではない場所に取り残された、朝には似つかわしくないものだ。「痕跡」の影から覗く感情に、朝が涼しい顔をした裏に隠す暴力的な一面を見ることができる。
「痕跡」によって拡張された朝に対する印象への新鮮さと、朝の訪れには抗うことができないという事実への少しの畏怖とが混ざり合い、私は「痕跡」に惹かれたのだと思う。
朝は誰しもに等しく訪れる。その訪れを心待ちにしようが、憂鬱に思おうが、そんな私たちの気持ちとは関係なく、日々、朝はやって来る。誰一人として取り残すことなく、新しい一日の始まりに連れていく。そんな朝の優しくて、でも残酷な表情が、早朝の渋谷の片隅に映し出されていた。