われわれが美術作品を鑑賞するとき、その「鑑賞する」という言葉が「観る」という行為を指していることに違いはない。しかし、「観る」という鑑賞者の一方的な行為にとどまらず、作品と鑑賞者が「関係し合う」ことを求めている作品が存在する。そうした作品は、「作品が鑑賞者に視覚的な情報を与える」ことと「鑑賞者が作品に対してさまざまな思考を巡らし、何らかの形で関係を持つ」ことからなる相互作用の反復の中で昇華していくのである。芸術家たちは、これまでさまざまなアプローチで作品と鑑賞者の関係性に向き合い続けてきた。
「反=網膜」への出発~20世紀初頭~
「関係し合う」美術の先駆けとなったのは、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887~1968)である。デュシャンは19世紀に登場したギュスターヴ・クールベ以降の絵画作品を、鑑賞者を視覚から得られる快楽だけに没入させてしまう「網膜的絵画」と名づけ、批判した。そして作品から鑑賞者への一方的な網膜(視覚)への訴えではなく、鑑賞者もその作品の作者として思考を及ぼすことを求め、《泉》(《Fountain》, 1917)を発表する。署名しただけの何の変哲もない男性用便器を芸術作品として提示したことは、当時大きな波紋を呼んだ。しかし、デュシャンにとっては《泉》に対する美術界の反発は想定のうちであり、むしろそうした反応から新たな美術を導き出そうとしていた。
たしかに《泉》は、視覚だけで捉えればただの便器である。一方で「なぜ《泉》という題名が付けられたのか」「この作品が何を意味しているのか」そして「そもそもただの便器を芸術だと言えるのか」といった問題を《泉》に遭遇した鑑賞者が思考することで、この便器は次第にさまざまな意味を帯びはじめる。各々の鑑賞者に委ねられた、さまざまな問いへの応答は、結果として《泉》の作品としての価値を確かなものにしていくのである。
《泉》から始まった、芸術観を再構築する動きは、デュシャン自身によってさらに推し進められた。《花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも(通称:大ガラス)》(《The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass)》, 1915-1923)は、その一つの到達点と言える作品である。その抽象的なオブジェを目の前にすれば、鑑賞者が作品を解読・解釈しようとすることも、それに失敗してまた新たな問いを立てることも、すべて作品の一部として取り込まれていく。デュシャンがこうした作品を制作したのは20代のうちであり、その後長い間新たな作品を発表しなかった。しかしその数年間のデュシャンの活動は、以後続くさまざまな現代アートの源流をなしたと言える。
融解する境界~1960年代~
1960年代は、全世界的に大量生産・大量消費が加速した時代だった。量産された工業用品や家庭用品が無造作に使い捨てられていく。そんな時代の中、かつてデュシャンが《泉》でもって立ち上げた、既製品(レディメイド、ready-made)に美術的な意味を付与しようとする動きは、大きな広がりを見せた。例えば、ジャン・ティンゲリー(Jean Tinguely, 1925~1991)やアルマン(Arman, 1928~2005)をはじめとするヌーヴォー・レアリスムの芸術家たちは、たくさんのレディメイドを寄せ集めること(アッサンブラージュ)でオブジェをつくりだした。オブジェを鑑賞する者は、デュシャンの作品に対するときと同じように思考を巡らす。そしてそれと並行して、寄せ集められた個々のレディメイドを、実生活とは違う場である美術空間で見つめ考え直すことになる。このとき、作品と鑑賞者の関係性は芸術空間を超えて、俗世的な日常空間におけるレディメイドと鑑賞者たちの何気ない繋がりにまで影響を与えているのである。
日常生活で無造作に取り扱われる工業製品を芸術の文脈に取り込んで、作品と鑑賞者、そして鑑賞者とその外界の関係性を考え直そうとする動きはヌーヴォー・レアリスムと時を同じくして、アメリカのポップ・アートやネオ・ダダの活動の中にも見られた。また、芸術家がごく日常的な空間で何らかの行動を起こすという違和感そのものを作品として捉え、鑑賞者を取り巻く環境を変容させることを目的とする芸術(ハプニング)も盛んに行われるようになった。
“関係”し続けるために~1990年代から21世紀へ~
「鑑賞者が作品に対してさまざまな思考を巡らし、何らかの形で関係を持つ」という行為をさらにアクチュアルな方向へと発展させたのがリレーショナル・アートである。これが「関係性の芸術」と訳されるときの”関係”という言葉は、作品と鑑賞者の間にある思考を介した関わり以上に、作品を制作する過程で生じる作品と鑑賞者の物理的な関わりを意味している。そこでは鑑賞者が作品を制作することに実際に参与するのだ。例えばリー・ミンウェイ(Lee Mingwei, 1964~)が2001年に発表した《The Tourist》は、鑑賞者が持ち寄ったものによって完成していく作品である。作品の参加者は、自身が暮らす街を特徴づける場所、空間、経験を表す物品を、ミンウェイが用意した箱の中に入れていく。そしてこの装置を世界中で展示してまわることで、さまざまな土地の記録が《The Tourist》のもとで一堂に会するのである。「ツアーガイド」としての役割を担う参加者たちは作品の創造者であると同時に、作品に眠るそれぞれの土地の記録を目にして、あれこれと思いを巡らせる鑑賞者にもなりうる。
《The Tourist》が鑑賞者のはたらきかけによってその姿を豊かにしていたとすれば、フェリックス・ゴンザレス=トレス(Felix Gonzalez-Torres, 1956~1996)による《無題(角のフォーチュン・クッキー)》(《”Untitled” (Fortune Cookie Corner)》, 1990)は、鑑賞者の行為によってその姿を失っていく作品だと言えるだろう。部屋の角に作られたおよそ1万個のフォーチュン・クッキーの山を目の前にした鑑賞者は、そこにあるクッキーを自由に持ち帰ることができる。そうして次第にクッキーの山が減少していく過程そのものを、ゴンザレス=トレスは芸術作品としてわれわれに提示している。クッキーの山は一日の展示の終わりごとに補充されるが、鑑賞者がいる限り常にその数量を変化させて一定の姿を保たない。そうした意味で、どんな瞬間でも鑑賞者は作品の存在に責任を負っていると言えるだろう。
ではこの「作品」の完成はありうるのだろうか。デュシャンの問題提起を踏まえると、本来作品は鑑賞者との相互作用によって完成へと近づいていくものだった。しかしゴンザレス=トレスのこの作品は、完成することなくむしろ、鑑賞者との「対話」の中で循環し続けていると考えることができるのではないか。このようにして、作品に対してまた新たな問いが生まれ、鑑賞者であるわれわれは思考を再開するのである。百年の時を経て、「対話性の美術」はさらに広がりを見せている。
作品
■《Fountain》, Marcel Duchamp, 1917
■《The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass)》, Marcel Duchamp, 1915-1923
■《The Tourist》, Lee Mingwei, 2001
http://artasiapacific.com/Magazine/WebExclusives/TheTourist
■《”Untitled” (Fortune Cookie Corner)》, Felix Gonzalez-Torres, 1990
参考資料
『現代アート、超入門!』藤田令伊著、集英社新書、2009年
『マルセル・デュシャンとは何か』平芳幸浩著、河出書房新社、2018年
『増補新装[カラー版]20世紀の美術』美術出版社、2013年
『シュルレアリスム美術を語るために』鈴木雅雄・林道郎著、水声社、2011年
Roxana Marococi(2003), “Projects 80: Lee Mingwei, The Tourist”, MoMA, https://www.moma.org/calendar/exhibitions/135(最終閲覧日2021年10月17日)
作家紹介
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)
1887年、フランス生まれ。“ローズ・セラヴィ”、またチェスの名手としても知られた。1968年没。その謎に満ちた生涯は、今もなお多くの関心を寄せられている。
リー・ミンウェイ(Lee Mingwei)
1964年、台中(台湾)生まれ。現在はニューヨークを拠点に活動しており、アジアやヨーロッパの国際展にも多数作品を出展している。
フェリックス・ゴンザレス=トレス(Felix Gonzalez-Torres)
1957年、グアイマロ(キューバ)生まれ。エイズで他界したパートナーにまつわる作品を制作し、大きな反響を呼んだ。96年、本人もエイズで死去している。