かつて、映画には音がなかった。
代わりに、スクリーンの隣に立ち、映画の内容を説明する語り手がいた。時に登場人物の台詞を語り、時に場面の説明をする。それが日本独自の文化、活動写真弁士である。
興行の成否を分けるまでに人気が出ることもあった活動写真弁士。楽士の奏でる生演奏の音楽と共に、彼らは独自の役割を担っている。
活動写真弁士、映画、楽士、そして私たち観客。四者が集まって作り出される空間には、独特の空気感が生まれる。目には見えず、その場にいる人間が肌で感じ取ることしかできないが、確かに存在する場の息吹。幽霊。
今回お話を伺ったのは、活動写真弁士として活動されている片岡一郎さんだ。
国内に数少ない活動写真弁士の1人として、常に最前線を走り続ける彼は、年齢も国籍も異なる人々に映画を説明し続けてきた。映画と観客を結びつけ、楽しませる。その中で磨かれた感覚は、間違いなくそこに存在している空気感を、鋭敏に感じ取っていた。
スマートフォン一台で映画が見られる現代。それでも劇場に足を運んでみてほしい。
その時、その場には、幽霊がいる。
〈片岡一郎〉
活動写真弁士。1977年東京都に生まれる。日本大学芸術学部演劇学科卒業。2002年に澤登翠に入門し、同年にデビュー。日本を代表する活動写真弁士として世界各国の映画祭などに出演、ツアーを行う傍ら、フィルムの発掘、研究者としても知られている。映画『カツベン!』(2019)に、実演指導・時代考証・出演で協力。著書に『活動写真弁史 映画に魂を吹き込む人びと』(2020)がある。
—現在の活動について教えてください。
基本的には、あちこちで活動写真弁士をやっています。活動写真弁士は、1930年代に音が出る映画、トーキーが出てきたときにものすごい衰退をしたんですけども、どうやら細い線が繋がっていて現代に至るというところですね。
—活動写真弁士の良さはなんでしょうか。
常に新作化されるところだと思います。百年くらい前の古い映像素材に、弁士の声であったり、楽士の生演奏の音楽であったりと、今の人間が入ることによって解釈が加わる。それは今のお客さんに届けるために、ある種の編集をすることにも近いわけですよね。ということは、極論を言ってしまうと、今日僕が弁士をやった作品は今日の新作であるという考え方が可能です。もちろん作品自体は昔のものですから厳密には新作ではないんですけど、僕は少なくともどこかに今の我々の意識を入れようと思っています。
—活動写真弁士は、映画に対して声優やナレーションとも違う独特の立ち位置にいると思います。活動写真弁士の役割とはなんだと考えていますか?
無声映画の時代から、弁士の是非を問う議論はされているんです。やっぱり映画というのは映画として成立、完成してる芸術なんだから、脇で喋るやつはいらないんじゃないかという主張はずっとあるわけですよ。でも、日本では現代まで残った。現代においても、無声映画は映像だけでいいんだ、とおっしゃる方はいます。その気持ちはわからないではないんです。ただ一般の方々に、「はい、これが名作ですよ」って、無声映画をそのまま音なしで見せても、なかなか楽しめない。だから我々が作品とお客さんの間に入ることで、風通しを良くしてあげる、繋いであげるっていうのが1つの役割かなと思います。
—片岡さんは声優としても活動されていますが、声優として演技するときと、弁士として説明するときで、感覚の違いはありますか。
感情の入れ込み方が違います。声優に求められるのは、役と同一化することなんですよ。そのキャラクターになって演じることが、西洋から明治期に入ってきた演技論の根本にあって、声優はその系譜にある。でも我々は演じているようで演じていなくて、外側から行く。ここにいて、その作品を語っている「自分」が結構強くあって、むしろその方が優先順位が高いんです。だから作品を語る、説明するっていうやり方になる。演じる、つまりその作品の中にズボンと入っていくんではなくて、ちょっと距離を置いたところから自分が語るんですね。
—説明をするときに大事にしていることはなんでしょうか。
どうやったら作品が今のお客さんと繋がっていくか、です。名作と言われているものの中にも、価値観が変わって、ストーリーをそのまま表面的に受け止めるだけだと合わないものがたくさんある。昔の映画の中には、驚くほど無邪気に人種差別や性差別をギャグにしてしまっているものもあるんです。だけどそれは、現代において、むしろ鑑賞の大きな妨げになってしまいます。そこで弁士は、どうやったら作品への没入感を阻害せずに、時代による価値観の齟齬を埋められるかと工夫するわけです。一方で、作り手は意識していなかったかもしれないけれど、今の我々にとって、作品の持っている意味が深くなるところもある。それを掘り下げて、なんとかほじくり出してやろうっていうのは、1つの目的ですね。今の人が何かを感じられなければ、芸能はやってもしょうがないと思うので。
—台本を書くときにもそれを意識しているのですか。
そうですね。作品を見て、解釈の肝となる視点を探すのが最初です。例えば「雄呂血」という作品があります。主人公は、根は善良なのに誤解されやすくて、どんどん自分の居場所を失ってしまう。最後には大事な人を守るために人殺しをしてしまって、役人に捕らわれるっていう話です。人の内面と、外から見たものって違うよね、というのがわかりやすいテーマなんですね。ただその主人公が、好きになった女性にストーカーっぽい行動をするんです。それは僕がこの業界に入った当時からも指摘されていた問題点だったんですけど、主演俳優の阪東妻三郎がかっこいいから作品が成立すると納得していた。他の人だったら気持ち悪いけど、阪妻だからって。そうしたら、2019年のことなんですけど、大学生の女の子が「え、キモい」って言ったんですよ。「イケメンだからこそむしろキモくて無理っす」って言われて、あ、もう無理なんだ、と思いました。根が善良だろうがなんだろうが、キモいストーカーの話には共感できないじゃないですか。
だから、視点を変えて語るんです。近年、社会から排除された人が、追い詰められた結果、罪を犯してしまうという現象が表面化してきている。僕の世代で言うと、まず秋葉原の通り魔事件。その後に、京都アニメーションの事件が起きました。社会との断絶が1つの引き金となって、ここまでの悲劇が生まれてしまった以上、「雄呂血」はその視点でやらないと通じないな、と思い台本を全面的に修正しました。僕の「雄呂血」にはそういう変遷があるんです。こんなふうに、この作品はこの視点で見れば通じるってコアの部分が見つかると、あとは他の表現が全部決まってくるんですよ。今の「雄呂血」で言ったら、どう主人公が追い詰められていくかを考えながら台本を書いていく。周りの人々が主人公を阻害していく場面を、セリフやナレーションで作り上げていくんです。
—弁士の芸風によって、活動写真の印象はがらりと変わると思います。ご自身の芸風はどのようなものだと思いますか?
まず前提として、単純にもっと上手くならなきゃいけないなっていうのがある。こういう殊勝っぽいこと言うのも嫌ですが、不満は常にあります。ただ、僕は音楽を聴いて、反応し合いながら説明できているのが一つの強みかなと思います。弁士の中には音楽はただ鳴っていればいいという人もいる。でも音楽は、最初の1音で結構イメージを作れちゃうんですよね。そうすると、僕らがどう頑張っても、音の方が場を支配してしまう。それに対して、音がこう来たから、じゃあ僕はこう返すよという微妙なやり取りをできるのは強みですね。今音楽がこれだけ語っているから、語りの入りを1拍待つとか。逆に、こっちが主張することによって、音楽に割って入ることもある。そういった押し引き、せめぎ合いをしていくのは、なかなか他の芸能にはない楽しみだと思いますね。もう一つ、僕は作品が発しようとしている声を受け止めて、それをお客さんに向けて出すことはできているのではないかなと思っています。映画の声を聞いて、雰囲気を感じて、作品が発そうとしている抽象的な概念を具象化、言語化するっていう作業ですね。
—まず映画があって、そこに弁士がいる感覚なんですね。
やっぱり映画が先にあると思います。でも同時に、映画に対して遠慮しすぎると面白くないんですよ。映画を絶対視してただの引き立て役になるんじゃなくて、時には自分が映画より前に出ようとする。だから、音楽とのやり取りと同じように、映画ともちょっとずつやり取りしている感覚はありますね。あとは、映画という一本の作品の中では、だれる場面もありますよね。そのときはあえてこちらが前に出る。作り手の意図とは違うのかもしれないけど、もうちょっとこうやったら面白くなるかなと思ったりとか。でも、ここは余計なもの出さずに映像だけで見てもらった方が絶対いいと思える場面もあるんですよ。そこに関しては、僕らはプライドを持って黙るんですね。弁士は、他の話芸と違って、いかに喋るかではなくて、いかに黙るかってところがポイントになってくるんです。落語家さんとかは、黙っても10秒、20秒で、それだって相当大間なんですね。だけど僕らは、今は映画が語っていて語りがいらないと思ったら、5分だろうが、10分だろうが平気で黙っていられる。映画に「はい、お任せします」って投げて、僕も映画を見て。それも映画とのせめぎ合いですね。
—見る世代が移り変わっていくなかで、現代の観客に対してどんな印象を持っていますか。
単純に言うと、若い人が増えました。無声映画時代を知る世代が亡くなっていくのを、ある種埋めるように若い世代の人が来るようになってきていて、結果的に観賞人口はそんなに変わっていないというのはちょっと面白いな、と思っています。ただ決定的に違うところは、年配のお客さんは懐かしいと思って来るわけですが、若い世代の方は、未知の文化として来るんですよね。若い人は、無声映画や弁士という文化に初めて触れることになる。そこでつまらないと思ったらもう二度と来ないでしょうから、現代の弁士は責任がとても重いわけです。どうやったらまた来たい、また見たいと思ってもらえるかが一番重要な課題ですね。昔を知っている方は、ある俳優さんのファンだから見たいというモチベーションがとっても強いんです。でも今の人たちはそんなこと知らない。だから作品の魅力勝負になる。スターじゃなくても面白ければいいってところが出てきているので、やりがいはあると思います。
—活動写真に初めて触れる若い世代に対して、古い作品を説明するときに意識していることはなんですか。
若い人に知ってもらいたい、楽しんでもらえるような状況にしたいという思いは当然あるんですけども、若い人に若い人にってこだわりすぎるのも、ちょっといびつだなと思うところもあって。末永く楽しんでくれる層の開拓は絶対必要なんですが、どうやったら若い世代にはまるかはわからないんです。それがわかってればやっているし、やり方があるなら僕が知りたい。ただ、唯一気をつけてるのは若ぶらないようにすること。若い人の気持ちわかってる感を出すのが一番きつい。僕らの世代のジョークですけど、カラオケで上司が「じゃあ最近の曲も歌っちゃおうかな」ってモー娘。を歌うみたいな。僕がどうやったって今の10代、20代の方とはずれるわけです。世代が違うので当然のことですが、多分僕らが知った段階でもう遅いんですよ。だから、そこにおもねると却って距離が出る。だったら、ただまっすぐ自分の手持ちの中で面白くなる方法を必死で考えてやるべきだと思います。
—説明の中での現代的な言葉遣いは、意識して現代人向けに選んでいるのでしょうか。
究極的にはお客さんに楽しんでもらうことが目的なので、そのためなら現代語だろうが古語だろうが入れちゃえばいいと思います。新しい言葉も語彙の一つなんですよ。ただ、どう今を入れ込むのかは、本当にセンスですね。同じ言葉でも、あるタイミングで入れれば面白くなるけど、違うタイミングや間で言うとずれちゃう。そこは経験値でやるっていうことだと思います。だから一番難しいんですよ。特に笑いを目指して今の言葉を入れるっていうのは、失敗すると本当にしらけるので。余計なことを言うと、作品の面白さそのものを阻害しちゃう。欲求に負けて言っちゃうときもありますけどね。いけるかなと思ってやってみたら全然ウケなかったっていうのも往々にしてあるので。
—アドリブはどう決めるのでしょうか。
完全にその場次第です。やっぱりお客さんの反応が頼りなんですよ。それに合わせて、もうちょっと言葉を足そうとか、反対にお客さんが映画に入り込めるようにむしろ言葉を絞ろう、とかでアドリブを入れるのが大きくて。我々はよくしたもので、お客さんが食いついているかどうかって結構わかるんですよ。お客さんが集中してちゃんと見てれば、独特の緊張感が生まれるんですよね。本当に楽しんでるときって、身じろぎもせず、ずっと前のめりで見るんです。ほんのわずかな差なんですけど、結構わかる。逆に緩慢な空気を感じるときもあります。多分人間が退屈してるときのもぞもぞ動くわずかな物音とか、暗くても見える動きとかから判断していると思うんですけど。
—映画と観客が繋がったと感じるときはいつですか。
気配の話になってくるんですけど、僕らのしている作業は、映画が発しているものを一度体の中に入れて、お客さんのいる向こうに届けることに近いんですね。そして、それを受けてお客さんから跳ね返ってきたものを、もう一度自分の中に入れ込むような感覚があって。一直線じゃなくて双方向の流れが生まれるわけですよ。それを感じられるのはここにいる人間、弁士だけなんですよね。滅多にあることではないんですけど、それが感じられたときに繋がったな、と思う。あとは単純な話ですけど、終わった後の拍手って楽しんでたかどうかで本当に違うんですよね。面白かったと思ってるときと、ただ終わった終わったって思ってるだけのときと、全く違う。今日はお客さんが見てると感じたときに、終わった後の拍手もいいと、「やっぱり今日良かったよね、みんなで楽しんだよね」って感じますね。
—そういう瞬間を引き出すために何を意識していますか。
引き出したい、っていうのが本当に正直なところで、法則はないんです。ただ、やっぱり自分が一方通行にならないことかもしれないですね。映画から来ているものを受け止めて、観客に流す作業で完結してしまうと、良くない。楽しんでいるお客さんからは、いろんなエネルギーが来るけども、そうでないときだっていろんなものを発している。お客さんも別に0、10じゃないわけですよ。ちょっと楽しんでる、結構楽しんでる、全然楽しんでない、とか全部出してるんです。お客さんがそんなに乗ってないときでも、僕らが諦めずにそれを意識して受けていないと、こっちに持ってくる気持ちは引き出せない気がするんです。だからやっぱり説明をしながら、お客さんとも対話はしている感覚ですね。
—ストリーミングサービスの普及や、4DX、VRなどの新たな技術によって、映画の楽しみ方は変わっていくと思います。そんな中、無声映画の強みはなんだと思いますか?
再現性の低さだと思います。映画が娯楽産業の中で強いのは、莫大な予算がかかったものの複製物を一気に作って、安く提供できるからなんですね。同時多発的に全世界に発信できるから、客単価を下げることができる。一方で、複製物がたくさんできるからこそ、劇場に行って見ることが特別ではなくなる。なんで家で見られるものを劇場に行って見なきゃいけないの、っていうのが、多分今劇場から足が遠のいている理由の1つです。特に配信だったら倍速で見たり、気になったところで止めて戻ったり、自分で見やすいように見られるけど、劇場はコントロールできない。だから、配信の方がいいっていうのはわかるし、当然の動きだと思います。わざわざお金を払って、交通費も払って、時間も使って出かけていく理由は、これから先、そこでしか見られないものを見たいからっていうのしか成立しないんじゃないかと思います。そのとき、弁士と楽士がつく無声映画には、本当にここにしかないものがある。録音しても、空気まではそのままパッケージングできない。映画でありながらそこでしか見られないっていうのは、無声映画でしか味わえない快感じゃないですか。そこが強みだと思いますね。
—これからの活動写真弁士、無声映画をどうしていきたいと考えていますか。
弁士っていう仕事で、もうちょっと多くの人が食えるような状況を作らなければいけないと思っています。僕だってそんなに儲かってないけど、やっていける程度には収入がある。でも、弁士だけでは食えず、バイトしながらっていう人の方が多いわけです。これから弁士がもっと広まっていくためには、食える人口を増やすことが一番大事で、それは本当にドライに考えていかなきゃいけないと思ってます。でないと新しい人も、才能のある人も入ってこない。いろんな人が増えて、供給をすることによって、需要を作っていくという作業もあるはずなんですよ。そうやって供給側が頑張ることによって、見たことのないお客さんに届いて、新しいお客さんに繋がっていく。あとは、7月に浪漫活弁シネマという企画で、声優さんに無声映画の語りをやってもらったんです。あくまで声優さんとしてやっていただいたので、弁士とはまたちょっと違うんですけど。他流試合のように、いろんな方々に弁士をやってもらうことによって、僕らには絶対届かないゾーンに届けていただく企画には、意識的に協力していきたいなと思ってますね。
—伝統芸能として伝統を守ろうとするのではなく、現代を吸収していこうという感覚を持っているのでしょうか。
そうですね。理由の一つとして、我々には伝統芸能というほどの型がないんですよ。音がない映画を作っていた時代が30年間くらいなので、弁士の歴史も必然的に30年くらいしかないんです。伝統芸能って、演者たちが100年、200年と様々なことをやっていく中で、型が生まれてくるんですよ。でも我々は型が生まれる前に一度衰退してしまった、居場所を失ってしまった芸能なので、実はこうでなければ活弁でないっていう不文律が全くないんです。でもそれは「らしさ」が薄いっていう弱点でありながら、なんでもいいんだっていう強みでもあると思っていて。それが現代を取り込んでいくところに繋がっていく部分じゃないかなと思います。ただ、僕から見たときに、無声映画に声をつける人たちが、弁士かそうでないのかの最大の基準は、無声映画という文化に興味を持って、敬意を払えるかどうかってところで。それが我々の唯一の型だと思います。映画史があって、様々な映画人たちが作品を作って、それを僕らはお借りして未だにやってるわけですよ。彼らが映画を作ってくれなかったら、僕らは何もできないんです。
—最後に、無声映画、活動写真弁士の魅力を教えてください。
無声映画は参加ができる映画だと思っています。映画単体で完結するのではなく、弁士や楽士をやるでも、反応をしながら見るでも、みんなが一緒になって映画に参加していくことによって、より楽しめるメディアです。それは、これからの世の中で結構可能性があるものだと思うので、ぜひぜひ皆さんも参加していただきたいなと思います。