ほんのうくん

コラム

 

 誰しもみんな、本能を制御できず苦しんだ経験があるのではないだろうか。もちろん私にもある。というか、日々苦しんでばかりだ。特に感情。あれは本当にどうしようもない。感情は、時に理性に反して込み上がってきて自分を困らせる。落ち込んでも仕方がないと分かっていても、悲しくて何も手につかなくなるときがある。頭では冷静に対処した方がいいと思っているのに、つい怒りに任せて行動してしまうときがある。そんなとき、本能を制御できない自分を責めたくなる。自分をそんな気持ちにさせる本能にも、うんざりする。
 しかし、こうした苦しみの原因は、果たして本能だけにあるのだろうか?初めから自分に備わっている本能が、自分を苦しめているというのもなんだかおかしな話のような気がする。いわば自分が自分を攻撃しているようなものだ。
 それならば原因は本能だけにあるのではなく、本能を非難すべきものとしている自分、もっと言えば、そんな自分の常識や価値感をつかさどっている社会にあるのではないだろうか。
私たちが生きる社会は、理性的な人を理想像として掲げる傾向がある。例えば、無欲で勤勉な人は評価される。他人のためを思った行動をした人が讃えられる。「みんなと仲良くしましょう!」「独占せず譲り合いましょう!」などといったよく耳にする教えも、理性的な行動を推奨するものだ。逆に、強欲で好き勝手に生きている人は陰口をたたかれたり、常に自分を優先して行動する人は自己中心的と揶揄されたり、本能のままに生きることは否定されやすい。感情についても同じだ。人前で泣いたり怒ったり喜んだり、むやみに感情を表出することはみっともないとされる。私も実際に、そういう人に対して「恥ずかしい」「子どもっぽい」「〇〇歳にもなって」などの非難の言葉を耳にしてきたし、時に口にしてきた。そんな社会に身を置くうちに、感情を抑え込まなければいけないという考えが、自分の中でどんどん根深く強固なものになっていく。
 だから、本能を抑制できないとき、感情的になってしまったとき、私たちは理想像とのずれを感じ、自己嫌悪に陥る。本能なんてなければ、感情なんてなければ、と思う。
 だが、もし本当に本能がなくなったら?悲しみ、怒り、喜び、全ての感情がなくなったら?
 私は、そこに残った自分が、本当の自分だと言える自信がない。
 けなされても、辱められても何も感じない。褒められても、成功しても何も感じない。大切なものを失っても何も感じない。その状態は限りなく機械に近いと思う。自分の好きも嫌いも、やりたいこともやりたくないこともない。自分の意思なくただ指示通りに動く、代替可能な存在。そうなったとき、自分と他人の見分けはどうやってつければいいのだろうか。本能がなくなったら、かけがえのないはずの自分という存在が消滅してしまうのではないか。
 もちろん、これは極端な話。社会は感情を全て抑えろとは言っていないし、むしろ感情を出すことが肯定される場もある。社会が理想として掲げるような、理性的な行動によって保たれている平和もある。だから、社会を否定したいわけではないし、するべきでもない。だが、本来一体であるはずの自分と本能を、時に仲たがいさせているのが社会であることも事実だ。
 そうやって考えてみると、いまいましく思えていた本能も、そんなに悪いやつじゃないような気がしてこないだろうか。ただ、少し社会と折り合いが悪いだけ。社会とうまくやっていきたい自分からすると、本能は空気の読めない面倒くさいやつではある。だけど、決して自分の敵ではない。むしろ本能は、自分がしたいこと、したくないこと、好きなこと、嫌いなこと、そういう自分の個性を、他の誰よりも分かってくれている存在なのではないか。自分を自分たらしめてくれているのが、本能なのではないか。
 社会の中でいくら本能が邪魔な存在であっても、本能と共に生きていくことは避けられない。社会と本能の狭間で苦しむことは必然である。そんなとき、本能を責め、それを制御できない自分自身を責めるのではなく、「まったくお前はどうしようもないやつだなあ」と温かい目で見ることができたら、少しは苦しさから解放されるの、かも。

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