往復詩簡 本能に対峙する

コラム

 私が小学五年生のとき、同じクラスのやんちゃな男の子からつけられたあだ名は「マジメちゃん」だった。成績表の先生からのコメントには「真面目」「いい子」というワードが必ず盛り込まれていた。ただし、真面目でいることが正しいと思っていたというよりも、大人に怒られたくないから真面目でいただけだった。掃除の時間にサボっている男子たちを注意するというよりは、彼らを横目に黙々と掃除を続けているタイプで、自分が怒られなければそれでいいと思っていた。自分が嫌だからとか、我慢できないから、という理由で行動することはなく、なるべく波風を立てないようにしていた。
 ただ無理して自分の感情や欲求といった本能を抑え込んでいるわけではなくて、私の場合はそもそも自分の本能に鈍感なので、「マジメちゃん」でいることを苦に思ったことはほとんどない。「マジメちゃん」は自分の性分に合ってるし、そうしていれば大抵周りともうまくやっていける。
 でも時々、素直な人がとてもうらやましくなる。自分の「嫌」とか「やりたい」という感情に素直な人は、人間としてとても可愛いし、周りにいる人の素直さを引き出すこともできる。そういう人に対して、どこかでずるいと思う自分がいた。そして、そう思うくらいなら自分も素直になってみればいいじゃんと思った。
 素直になるためには、自分の本能を知らなきゃいけない。そこで、自分と性格や感性が異なりそうなサークル員の一人と一ヶ月間、「本能」をテーマに詩の交換日記をすることにした。本能を表現する場をもつことで自分の本能に向き合おうと思ったのと、自分以外の人とやりとりする中で、自分だけでは思いつかない角度から本能について考えられると思ったからだ。これは「マジメちゃん」として生きてきた私が、他者との創作のやり取りを通して自分の本能について知ろうという試みの記録である。

二月二十三日
 海を眺めるのが好きだ。入るのはあんまり好きじゃなくて、揺れる水面を遠くからぼんやりと眺めるのがいい。そのときの自分が感じているのは懐かしさと言う他なく、しかし私は内陸生まれ内陸育ちで海とは無縁の生活をしてきたのだから、懐かしいと思うのは変である。自然が大好きな友だちが「自分は前世山で暮らしていたに違いない」と力説していた。私の前世が海の生物なのであれば、この懐かしさにも説明がつく。私は本当に泳ぐのが遅いため、海をゆったりと泳いでいるイメージのあるクジラを短歌の中に出したが、後から調べたところマッコウクジラは時速45kmで泳げるらしい。これはウサイン・ボルトが世界記録を叩きだしたときの瞬間的な最高速度で、勝手に裏切られた気持ちになった。
二月二十七日
 相手の詩に登場したシャネルナンバーファイブから香りをテーマに歌を作ろうと思った。視覚優位とか聴覚優位とか、五感の中のどれが最も優位かは人によって異なっているという。視力は0.1なくて、人の話していることをなかなか一発で聞き取れない自分は、嗅覚で世界を捉えがちかもしれない。自分の生活の中で一番強烈な匂いは、早稲田駅のすぐそばにある香港料理屋から漂う八角の匂いだ。最近は街中で八角の匂いを嗅ぐとつい大学のことを思い出してしまう。あの強烈な八角の匂いが服についていたらすぐに気づくだろうなと思ったところから着想を得た。
三月一日 
 サウナ巡りをするほどではないが、銭湯にサウナが付いていたら入ってしまう。サウナはすごく暑くてしんどいし、水風呂はすごく冷たくてしんどいし、そのうえ健康にもあまり良くないらしいのだが、整うときのあの感覚をつい求めてしまう。意識がぼんやりして、五感が研ぎ澄まされて、世界と自分の境界線が曖昧になる。その状態からクリームソーダに乗っているアイスが溶けてドロドロになって、下のソーダと混じり合っている状態を連想した。相手が日常の中の行為に人間の破壊衝動を見出していたのに影響を受けて、自分はサウナに入るという行為に、健康を害してまで快楽に溺れたいという破滅的な願望を見出して短歌にした。

三月五日
 普段から理性的であることを正義としているため、自分の感情や欲求のせいで人を傷つけたり、迷惑をかけたりすることがなによりも嫌だ。それなのに、どうしても感情を抑えられなくて人を傷つけそうになってしまうことがあった。本能に素直に生きることに憧れていたし、実際本能を知ることで日常が面白くなった感覚はあるけど、本能は凶暴なものでもあるということを認識した。最初は相手の詩を受けて自然を登場させようとしていたが、自分の精神状態が反映されていって結果的に抽象度の高い短歌になった。
三月九日
 犬カフェに行った。夕方に行ったからかもしれないが、餌を持っているとき以外は視界にも入れてくれないという犬たちの塩対応ぶりにショックを受けた。犬は愛想がいいものと思い込んでいたから余計に悲しかった。普段なら、損した気分になりたくないから「可愛くて癒された」という感情のみにフォーカスして、モヤモヤは無かったことにするのだが、今回はあえてその悲しみを短歌にした。相手の詩の軽薄な雰囲気に影響を受けて、自分の短歌では犬の現金さをコミカルに表現してみた。餌を持っていない、そのままの自分で動物からめちゃくちゃモテたいという自分の傲慢な部分を自覚した日でもあった。
三月十三日
 相手の詩から人間のエゴをテーマに詩を作ろうとした。昔から、動物と触れ合っているときの人間にエゴを感じてしまう。動物が喜んでいるのが明らかな場合を除いて、動物と触れ合っているときの人間を一歩引いてみてしまうし、自分は積極的に動物に触れられない。動物側がその触れ合いに合意しているならいいのだが、それが分からないから気が引けてしまう。私は普段、合意しているはずもなく屠殺されている動物の肉を何も気にせずに食べていて、そっちの方がよっぽど残酷なはずなのに、動物と触れ合うときに向こうが嫌がっていないかということの方を気にしてしまう。そういう自分の方がよっぽどエゴイストで、でもその非合理さこそ本能なのかもしれない。今後科学技術の発達で動物の気持ちが分かるようになって、触れ合いに合意しているかどうかが確認できるようになったら、動物ともっと距離を縮められるようになると思う。

三月十八日
 ダンスが下手だ。自分ではうまくやれているつもりでも、他の人から見たら面白い動きをしているらしく、よくネタにされていた。あと、かなりの音痴だ。音を外すくせに声量はあるから、合唱祭で口パクを要請されたことがある。さらに美術も苦手だ。「画伯」とまではいかないが、手先が不器用で、作業が遅いから、授業内で作品を完成させられず、居残りの常連だった。唯一文章を書くことは昔から得意で、目の前の事象をうまく言葉にできることに快感を覚える。たとえ生み出されるのが「言葉製の贋作」ばかりだったとしても、言葉にせずにはいられないのが自分という人間なのだと思う。
三月二十三日
 相手が詩に旅と海を登場させていたので、自分は生きることを航海に例えて、この一ヶ月間を総括する短歌を作ることを試みた。これまでの「マジメちゃん」な自分は、自分の本能をガン無視して、周囲の人に怒られないことばかりを考えたルートを無理矢理走っていた。こんな自分を変えたい、自分の本能のままに進める人間になりたいと思ってこの試みを始めてみて、自分の本能を知ることは楽しかったし、素直になってみることもできた。けど一方で、本能に振り回される恐ろしさもまた実感して、自分の本能を把握し、うまく付き合っていくことが必要なのだと考えるようになった。実際の航海でも、海や風の様子を知り、常により良い航路を模索しながら進んでいくことが求められる。私が私の本能をよく知り、私自身で舵を取っていきたいという決意を短歌に込めた。
 短歌を作る中で、これまでは知らなかった自分、知らないフリをしていた自分を知ることができた。それは自分の本能を妥協せずに表現し続けてくれた相手の姿勢や視点、表現に刺激を受けて引き出してもらったもので、自分だけではたどり着けなかったであろう視点や表現をさせてくれた彼に感謝の意を表して結びとする。

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