私たちの生活にインターネットは欠かせないものとなっている。しかしながらインターネットの特性や問題を私たちユーザーが客観視することは難しい。現在、インターネットでは何が起きていて、それによって私たちの欲望はどのように変化しているのか。デジタル文化について研究されている国際ファッション専門職大学の高橋幸治教授にお話を伺った。


インターネット時代の諸問題

——近年、フィルターバブルという単語をよく耳にしますが、これはどういったものでしょうか。

インターネットには、検索履歴に基づいた情報だけをピックアップする機能があります。それによって、見たいものだけが私たちの目に入ってくるようになります。それは要するに、自分の考えや好みとは異質な情報が遮断されてしまうということです。この現象こそがフィルターバブルです。 我々は無意識のうちに、インターネットで自分だけの閉じた世界を作ってしまっているのです。

——フィルターバブルには、どのような問題があるのでしょうか。

何かを調べるときに、インターネットが提示する検索結果が非常に狭まった回答群となってしまう、という問題があります。その人に最適なフィルターがかかっているので、情報の広がりが失われていきます。そのため、調べれば調べるほど、視野が狭くなってしまうのです。

フィルターバブルとは対極の言葉にセレンディピティというものがあります。偶然に思いもよらない情報と出会うことです。そういうときにこそ、人間の創造性が生まれるというか、イノベーションが起こるということですよね。意外な情報が入ってきたときに、人間の脳にもともと蓄積されていたものと化学反応が起きます。一見関係ないモノ同士がバキンとつながるのです。そういう情報との豊かな出会いというものが、フィルターバブルによって限りなく失われています。

まさかそんなことが起きるとは、インターネット黎明期には想定されていませんでした。

——私たちの生活の中で、フィルターバブルと欲望はどのように関わってくるのでしょうか。

これは現代においてはすごく深淵なものだと思います。やはりフィルターバブルの外に出て、自分で選択する機会を増やした方がいいのだけれど、もう少し推し進めて考えると、僕らはそこまで自由を行使したいわけでは無いのかもしれません。特に現代社会において、僕らは朝から晩まで、ありとあらゆるものの選択を迫られます。例えば、「今日はどの服を着ていこうか」、「今日のランチはどこにするのか」などです。1から10まで全部を選ぶということは、かなり骨の折れることで、不可能に近いことではないでしょうか。その意味では、ある程度のサンプルを示された方が選びやすいと思います。アメリカの法学者、キャス・サンスティーン(註1)は、「現状のなかで、『選択しない選択』というのも自由を行使するうえでのパターンである」と言います。些末なことはアルゴリズムに選択を任せてしまって、人間はより重要な、取り組みたいと思っていることに集中したほうがいい、という意見もあります。

——近年では、「選択をゆだねる欲望」が芽生えているということでしょうか。

そうですね。表層的には「選べることこそが自由で、それこそが欲望に対するまっとうな対処」だと思われがちだけれど、案外そうではなくて、面倒くさいことは何かにゆだねてしまいたいという欲望はあると思います。フィルターバブルから脱却するにはどうするのかというところだけを考えていても、情報化社会の全体像はなかなか見えてこないのではないでしょうか。

——フィルターバブル以外に、ネットが生み出してしまった問題はありますか。

よく言われていることですが、炎上に発展しやすいことや、誹謗中傷が起こって、ときにそれが自殺につながってしまうという問題があると思います。その要因の一つとして、インターネットには非常に多くの人が集まっていることが挙げられます。ソーシャルメディアは、登場したてのころは集合知としての活躍が期待されていました。個人の能力では限界があるので、多くの人々の意見や知識が集まることによって、より大きな知性が形成される。そういう場面は今でもあると思います。しかし誰もがネット上で自由に発言できることには、誹謗中傷などの悪い側面もあります。

この問題の二つ目の要因は、デジタル技術の特性である「情報の断片化」にあります。雑誌や新聞などのアナログのメディアは「パッケージ化」の技術によって作られます。例えば、雑誌を作るにあたって編集会議を開いて、どの記事を入れるか、一記事あたりに情報をどのような形で詰め込めばいいのかが話し合われます。それは、一つのメディアに情報をパッケージ化するということです。一方でデジタルの場合は、情報を断片化する技術なのです。情報は、デジタルだとバラバラになるのです。音楽の例で考えるとわかりやすいですが、音楽レコードはA面B面があってアーティストの世界観がパッケージされていました。一方デジタルメディアになったとたん、聞きたい曲だけをリピートするようになって、一曲一曲が独立してくるのです。このように情報の単位がどんどん小さくなっていきます。SNSにおいては、いわゆる「釣り」と呼ばれる、人が引っかかる見出しだけを持ってきてタイムラインに張り付ける、ということが行われます。どんどん情報が断片化されてしまうわけです。記事の一部を抽出してタイトルにすることで、非常に強い反射的な感情を人々に抱かせてしまうというのが、デジタルの特性の一つです。情報を送り出す側も断片化して発信するし、受け取る側も手軽さゆえに、断片化された情報を受けとってしまう。さまざまな誤解、曲解、その上に悪意が乗ったりして、炎上騒動に発展してしまうのです。

欲望の現在地

——インターネットができる前と後で、私たちの欲望はどう変化したのでしょうか。

食欲や性欲といった生理的な欲求以外の欲望は、文化的なものだと思っています。僕らが心から欲しいと思い込んでいるけど、本当はそんなことない、というものは結構あると思うのです。欲望は、自存してない。おのずから独立してあるものではない。例えば、メディア論の先駆者であるマーシャル・マクルーハン(註2)が述べているように、車ができるまで誰も車を欲しなかったし、テレビができるまで誰もテレビ番組を観たいとは思いませんでした。つまり欲望は、ある「受け皿」ができたときに初めて発生するのです。140文字でつぶやきたいからTwitterができたのではありません。Twitterが僕らの日常生活に入り込んできたことによって、はじめは自分のことを発信する行為に懐疑的な反応だったのが、徐々に受け入れられてきて、「友達とご飯行ったときにその写真を載せよう」となっていった。Twitterというメディアができて、人間が元から持っていた承認欲求が、より増幅されたということでしょう。このように欲望の「受け皿」、テクノロジーやメディアができることによって欲望は発生すると思います。今はコロナ禍で、いろいろな人がいろいろな形で不自由を強いられているなかで、多くの人が、自分自身の欲望をはじめとするさまざまなものを精査したと思います。コロナの前はあれほど好きだったことが、いざできなくなるとそれほどでもなくなったり、逆に軽視していたものが大事なものに変わったり。欲望は、テクノロジーやメディア、環境などまわりのさまざまな状況によって、発生、増幅、衰退、消滅をしていくのでしょう。この点において、欲望とは文化的なものだと考えています。

——インターネット登場以降は、さまざまなことを実行する「受け皿」が増えたということでしょうか。

増えたとも言えるし、形が変わったとも言えます。例えばネット通販は、Amazonができてから、社会に受け入れられてきましたが、ファッションに関わるものはネット通販では成功しないだろうなと思われていました。そういったものは自分の目で見て手で触ってみないとわからない、と。しかし、今では多くの人たちがネット通販で服や靴を買うようになりました。これはなぜかというと、一般の人たちにネットで服を買うノウハウが蓄積されたからです。「このブランドのシャツはMだと自分にピッタリ」とか、「ナイキだと25cmが履きやすいけど、アディダスだと26cmだ」といったノウハウをユーザー側が持つようになったので、物欲に関して、それを実現するプロセスが大きく変わっているのでしょうね。

——情報を発信側だけではなく受信側も持てるようになったということでしょうか。

そうですね。今までは、マスメディアや新聞社などの情報を発信する人たちが発信者、それをありがたく頂戴するのがわれわれ受信者という分かりやすい構図でした。しかし現在、その構図は複雑になっています。その背景には、デジタル技術の特徴の一つである、「技術は発展すればするほど人に任せていたことを自分でやるようになる」というものがあります。

例えば、写真も昔は写真屋で現像を頼んでいましたが、現在はパソコンにつなぐことで、自分で印刷できるようになりました。そういったことはたくさんあって、昔に比べると僕らは、自分でできることが格段に増えました。

アルビン・トフラー(註3)の言葉に、「人類は農業革命、工業革命の次に第三の革命として、情報革命の段階に入ってくる。テクノロジーとは自分で何でもやれるようになる現象である」というものがあります。情報革命以降、消費者はただの消費者ではなくて、生産消費者になっていくということです。自分で作りつつ消費する。例えば、僕らはSNSを通じてものすごい量の情報をアップしているじゃないですか。それは、かつては新聞社や出版社でないとできないことでした。つまり、かつてはプロに任せていたことを消費者は自分たちでもするようになっていった、ということです。このことは、欲望に変化を促すものなのではないでしょうか。

——インターネットにより、さまざまな「受け皿」ができ、私たちの生活は間違いなく豊かになったと言えます。しかし陰謀論など、インターネットの出現によるネガティブな変化もあるのではないでしょうか。

それは多分にあるでしょうね。先程のフィルターバブルに関する笑い話として、定年した父親が一日中ネットばかり見るようになって、ネトウヨになってしまったなんていうケースもあるようですし。そういった形で自分が望む情報だけを浴び続けることで、どんどん確信が深まっていく、というのが陰謀論のプロセスだと思います。確かに、非常に情報に敏感な人や、情報のより分け・選別がうまい人はいます。そのような人たちは、とりとめもなく乱雑に広がった情報の中で、「この情報とこの情報はこんな関係にあるのだな」といったような分類・整理ができるのです。しかし、そうした人たちばかりではないでしょう。なかには情報が散乱した状態を見て、強引に情報の処理をして、短絡的な落としどころを見つけてしまう人もいます。それが陰謀論へ発展するのだと思います。

このことは、冒頭に述べた、自由や選択の問題と関わると思っています。自力で情報を要約・解釈したり、選択したりするのは結構骨の折れることなので、情報の扱いが苦手な人たちは、誰かほかの人に解釈を任せてしまったり、ぱっと見た印象で決めつけてしまったりします。そこにいろいろな情報が入ってくると、自分でその解釈に微調整を加える必要があるけれど、そういった情報を、陰謀論という「型」にはめることによって簡単に処理してしまう。それが陰謀論の一側面でしょう。解釈して意味を与えてしまうと人間は安心するじゃないですか。一回それで思い込むと、いろいろなものが型にはまって見えてきます。いつまでも状況が判然としない、解釈が定め切らない、という状況はなかなかに辛いので、決めつけてしまったほうが楽だということはおおいにあるでしょう。

実は普段僕らが朝から晩までいろんなメディア、特にデジタルメディアを通して浴びているのは、情報ではなくてもっと手前、情報以前のものだと思います。それはより断片的で、精度の粗いものです。ここでは“データ“と呼びましょう。現代は情報過多になっているといわれますが、実は過多になっているのは解釈のしようもない“データ“かもしれません。そのように考えると、僕らは、情報過多の中でおぼれそうになっているというより、“データ“過多の中でおぼれていて、実は情報不足なのではないかとも思います。

 ——“データ“と情報の違いは何でしょうか。

“データ”が、より立体的で、深いものになると情報だと呼べるでしょう。例えば、「3月21日に緊急事態宣言解除」という一行のニュースの見出しは、ほとんど“データ”ですよね。それに加えて、なぜその日に解除なのか、つまり専門家の会議があって、東京の感染者数が何人以下で、したがって21日に解除になるという根拠があって初めて情報になる。極度に断片化された、数値や単語に近いような“データ”ばかりが入ってきて、僕らはそれをたくさん浴びている。立体的な情報にできないまま“データ”ばかりを浴びつづけることは、とても精神的に辛いことです。これを解決するために、陰謀論という一つの短絡的な型、強引なフレームを借りてきて、どんなデータが来ても、その型の中で処理してしまう、ということが起きるのです。

大学生は、大量の”データ”の中から、自分たちで情報の編集をしなければならない人たちだと思っています。例えば、4年間のカリキュラムを自分で選択して受講するのも編集です。他にも、いろいろな授業を聞くなかで、正反対なことをいう教授もいますよね。この教授とあの教授の言っていることが真逆で、どちらが正しいのか。学生それぞれの問題意識や価値観に照らし合わせてどちらをチョイスするのかという選択を強いられるわけです。しかし、「どちらが正しいのか」を安易に決定するのではなく、「こういう見方もあるのだ」という中立の状態を保ち続けるのが知的な行為であると思います。「すぐに結論を出さない」ということが大切なのです。

進路とか将来というものは、たとえば就活の面接などの、ある特定の場面では明確に決まっていると装わないといけないけれど、とりあえずの目標を設定しつつも、その目標にこだわりすぎずに、状況を見て判断する。人生は、これの連続だと思うんです。ある種の決断主義というか、物事をバッサリ切るような物言いがありますが、あれは分かりやすいので人気を博したりします。例えば、確かにポピュリズム的な言説はハッキリとしていて分かりやすいものかもしれません。しかし、実はほかの情報や見方をシャットアウトしている、とても視野の狭い不誠実な態度だと思います。状況に対して、しっかりと面と向かって対峙しようと思うと、簡単に物事を決着できないですからね。そういうことが現代はすごく多すぎるから陰謀論は魅力的に思えるのでしょうね。ついわかりやすいものを求めたくなってしまうという欲望が多くの人に生まれているのです。

情報社会で生きていく

——情報化社会では、どのようなスタンスでいるのが良いでしょうか。

実は、放っておいても、大方の人たちは他人との会話を通じて、情報を得ることができます。情報は手に入れようとしなくても、ぶつかってくるので、「無理に取りに行かない」というスタンスを持つことも大事でしょうね。例えば、1日数時間はスマホを使わないでおくとか。アメリカの最先端のIT企業の人たちは2、3年前から、デジタルデトックス、デジタルミニマリズムということを提唱し始めているのです。彼らはずっとネットばかりを見ているとどうなるか骨身にしみてわかっています。今のインターネットを形作っている彼ら自身が、「ある程度デジタルを抜く、最小化していく」というライフスタイルをあえて作ろうと言ってしまっているのです。コロナ禍だと、人に会えないから、どうしてもネットに触れる時間が増えて、フィルターバブルの中にこもりがちになります。しかし、時には興味のない情報にあえて触れることが必要になるでしょう。

最後に、ネット時代を生きるうえで、私たちは欲望とどのように向き合っていけばいいのでしょうか。

ネット時代というと、先ほど言ったように、さまざまな技術やメディアが、欲望の「受け皿」を提供してくれて、私たちはとても多くの欲望を自分たちの手で、実現できるようになりましたよね。ここ7、8年で、YouTuberという新しい職種の人たちが出てきたりして、始めはキワモノとして扱われていた彼らがどんどんマスメディアに進出していって、逆にマスメディアで活躍していた人たちがYouTubeに来るようになった、と。その中で盛んに言われていることは、いかに情報を発信するかが今の時代では重要になるということです。そのスキルを向上させるための本もあったりします。しかし、いま特に磨かなければいけないのは、発信スキルではなく受信スキルだと思います。特定の情報に接近・没入する程度をいかにコントロールするか。ある特定の情報に没入して、「この情報しか見たくない」という欲望が生まれて、そのことばかりに集中してしまい、周りのことがおろそかになってしまうことはあると思います。しかし、欲望は、「受け皿」ができて初めて生まれるので、テクノロジーや環境によって簡単に変化します。そう考えると、自分が振り回されるくらいの膨大な量のインプットって実は意味がなくて、欲望を精査することでいかにうまく情報をコントロールしていくかがこれからの時代は重要だと思います。

註1 キャス・サンスティーン・・・アメリカの法学者、ハーバード大学ロースクール教授。著書に「選択をしないという選択」「インターネットは民主主義に何をもたらすのか」などがある。

註2 マーシャル・マクルーハン・・・カナダ出身の英文学者、文明批評家。メディア研究において重要位置を占める存在一人とされる。

註3 アルビン・トフラー・・・アメリカの評論家、作家、未来学者。主な著書に「第三の波」がある。