「何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。知っていたはずのものを未知なるものとして捉えなおし、より深く認識できるようになることを言う。」そうおっしゃるのは無印良品のアートディレクターとしてMUJIブランドを世界に確立した原研哉さんだ。彼は普段、私たちが意識しないようなことにデザインの契機を見出し、ハッと気付かせられる作品を生み出し続けている。そんな彼の鋭い眼差しを二項の世界に向けていただくことができた。


——私たちはなぜ二項で物事を考えがちなのでしょうか。

二項で考えることが人間にとって楽なのだと思います。「しかし」という接続詞を使うでしょう。この言葉は論を展開していくうえで非常に効果的です。「しかし」を用いて従来の考え方に対し別の考え方を提示していくことで思考が動きます。俳句みたいな情景描写だけの世界をずっと見ていると思考が前に進んでいかないんです。英語にも似た表現で「AだけでなくB」を意味する「not only A but also B」という言葉があります。あるいはアナロジカルに考える行為にも見られます。アナロジカルに考えるということは、何かある一つのことを捉えようとするときまったく違うものを引き合いに出し、その二つに類似性を発見することで、ある一つのことの理解を深めようとすることです。対照をなすものがあると、目の前にある現象をより深く理解できるようになります。

——私たちが二項を意識するようになったのはなぜでしょうか。

世界はなぜ四角くデザインされているのか? ということから考えてみてください。世界を観察すると世界は四角くデザインされていることに気付くと思います。緩やかな起伏の有機的な大地を四角く区画して、四角いビルを建てて、四角い入り口から入って、四角い廊下を直角に曲がって、四角いドアを開けると四角い部屋に四角いテーブルがあって、窓も四角だから風景も四角くトリミングされていて、コンピュータも四角くて…と考えると、人間は無意識のうちに世界を四角くデザインしていることがわかります。四角形を自然界で見つけるのは難しいんです。おそらく四角形は左右対称の身体を持つ人間にとって、「対称性」という点で相性が良かったのでしょう。人間は外界環境を自分たちの都合の良いように加工する生き物です。その結果、四角というものが世界にたくさん発現したんです。それが身体から離れて純粋な思想の世界に入り込んできた結果、二項という概念が生まれ、それを私たちは意識するようになったのかなと思います。

——原さんは無印良品のアートディレクターを務めており、emptyをコンセプトとされています。emptyはどのような概念と比較することで理解が深まるのでしょうか。

シンプルと比較して考えると良いと思います。シンプルは西洋から生み出された思想なんです。自然科学とエンジニアリングが西洋で進化し、近代が生み出されました。そこで発見されたのがシンプルです。近代以前、絶対的な権力の中心に王様が存在しており、建築家や造形家の役割はいかに人々に王の偉大さを理解させるかということでした。そのため、その当時のデザインは常に過剰さをまとったゴージャスなものでした。しかし、近代になり王の権威を表象する必要がなくなった時、合理性という思想と結びついて、限界まで無駄を削ぎ落そうとする動きが造形運動として生まれたんです。それがバウハウス(註1)に象徴される動きです。彼らの生み出した合理的なデザインは、私たちが普段意識しないほど日常に浸透し、今やデザインの主流となっています。

一方、emptyの着想は日本の美意識に根っこがあります。その美意識の源流は、応仁の乱のあとの室町後期あたりだと僕は考えています。それまで日本は世界中のデザイン、特に中国の影響を受け、京の街は豪華絢爛でした。その豪華絢爛な文化が、応仁の乱によってかなりの部分が失われてしまいます。応仁の乱の後に隠居した将軍、足利義政や、庭を得意とした善阿弥、生け花を立ちあげた立阿弥、調度室礼を監修した能阿弥などを中心とした新しい美意識の潮流が起こりました。その中で生まれた美意識がemptyです。彼らは、何も無いもののほうが想像力を呼び起こす力があると考えました。千体仏のように情報をたくさん投げかけてくるものより、龍安寺の石庭のように何も無い庭のほうが人のイメージを喚起すると考えたのです。庭を見ると、失恋して悲しいなと思っている人であればその気持ちを整理できるとか、あるいは絶望している人でもそこに救いが見いだせるとか、幸せに包まれた人であれば幸福感が増幅された感じがするとか、emptyは人間の感性をアクティブにしてくれる作用を持っています。要するに、emptyはシンプルと似ているように見えますが根本的なところは違います。西洋の合理性から発見された「シンプル」に対し、イマジネーションを喚起するミニマリズムが「empty」なんです。

(註1)1919年、ヴァイマル共和政期ドイツのヴァイマルに設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った機関であり、合理主義的・機能主義的な芸術を目指したことが特徴としてあげられる。無駄な装飾を廃して合理性を追求するミニマリズムの源流となった。

——emptyのコンセプトは日本以外の国でも受け入れられるのでしょうか。

中国の人たちは、明とか清の時代の豪華絢爛さのせいかカラフル好きだと思われがちです。しかし実際は、老荘思想や宋の時代に見られる簡素簡潔さも好きなんです。だからemptyというコンセプトを受け入れてくれます。あるいはヨーロッパの人たちも、自分たちの文化の中に無い造形原理に対しては憧れを持っているので、理解してもらえます。最初に作った無印良品の広告は、地平線の中にポツリと人間を点のように写しただけのものでした。世界中のお客さんはそれを見て、「エコロジー、フレンドリーなんだな」とか、「値段は安いんだな」とか、「ノーデザインなんだな」とか、勝手にイマジネーションを働かせてくれるわけです。

——原さん自身のデザイン観の中に大きく反映されている二項があれば教えてください。

今回のテーマを与えていただいた時に、僕は「generation」と「degeneration」というものを考えました。generationとは、混沌から何かが発端となって形や意味とか記号が生まれ、それが徐々にシステマティックに成熟していく動きです。一方degenerationは、その頂点に達したものが段々壊れ、朽ちていき、もう一回混沌のほうに向かって退行していく動きのことを言います。「わび」「もののあはれ」という言葉がありますが、これらはあらゆるものがdegenerateしていくことに対する儚さを表した言葉だと思います。degenerateしていく運命を感じ取りながら桜を見てみてください。きっと今までより、儚くとも美しく感じられるはずです。僕は世の中のあらゆるものがdegenerationの動きを持っていると思います。造形を作っていく上ではポジティブなgenerationの動きだけを見てしまいがちですが、degenerationを一緒に見ることをしなければ、良いものを作ることはできないと考えています。

——二項対立に私たちはどう向き合っていけば良いでしょうか。

二項対立は哲学的なものの捉え方だと思います。哲学というのは、走ったりご飯を食べたりというような人間の営みから思考を自立させて、純粋に思考だけで世界を捉える学問です。つまりそれだけピュアで面白いものだけども、ともすると身体というところから違ったところに思考が独立してしまいます。成と退行、成長と衰退、満ち引き、といったイメージは思考の産物というより、生きものとしての身体的認知であるように思います。人間は思考の中だけの世界を生きているのではなく、環境の中に置かれており、その中で何かに反応することで生き生き活動しています。そのことを忘れてはいけません。

二項対立的な考え方が自然に生まれてくるなら、それを面白がれば良い。だから二項対立そのものを問題にするのではなくて、二項対立的な考え方をする人間という生きものとしての面白さを楽しめば良いと思います。

——二項で考えると面白いと思えるものにはどんなものがあるでしょうか。

例えば、庭はそれに当たります。庭をほったらかしているとすぐに自然に帰ります。そのため、庭を維持するためには掃除をしなくてはいけません。しかし、単に掃除をすれば良いというわけでもありません。掃除しすぎた庭は、やぼに思えてしまうのです。これは日本人ならではの感覚かもしれませんが、完璧に掃除しすぎた庭は人工的でダサいから、ちょっと落ち葉が舞い散った感じや、ちょっと苔がついてしまった方がかっこいい。そういう意味で庭は、自然という混沌へのベクトルと、人為という整序へのベクトルの波打ち際にあるのだと思います。掃除しすぎてもいけない、だけど自然が勝ちすぎてもいけない。そのバランスが「庭」をなしている。何百年も龍安寺のような庭が管理され続けてきたということを考えると、それだけ長い時間、波打ち際が維持されてきたことに感慨を覚えます。

——二項のバランスを保つことが重要なのでしょうか。

そう思います。例えば、きれいすぎて何もないオフィスは冷たすぎて嫌だけども、書類が散らかっていて、半分食べかけのカップ麺が腐っているようなものが平気で存在するオフィスも嫌じゃないですか。きれいと雑多の二項のうち、片方に寄りすぎてしまうと居心地は悪くなります。またファッションに関しても、格調高い服とカジュアルな服について「原さんの好みはどちらですか」とよく聞かれますが、僕は無印良品もユニクロも好きだし、エルメスもジル・サンダーも好きです。どちらかだけを選択することはできません。でも、このようにどちらか片方に振り切ることができないことこそ、生きている証なのだと思います。


原研哉 KENYA HARA

1958年生まれ。デザインを社会に蓄えられた普遍的な知恵と捉え、コミュニケーションを基軸とした多様なデザイン計画の立案と実践を行っている。日本デザインセンター代表。武蔵野美術大学教授。無印良品のアートディレクション、蔦屋書店、GINZA SIXのビジュアルアイデンティティ、JAPAN HOUSEの総合プロデュースなど、活動の領域は多岐に渡る。一連の活動によって内外のデザイン賞を多数受賞。主著に『デザインのデザイン』(岩波書店/サントリー学芸賞)、『日本のデザイン』(岩波新書)、『白』、『白百』(中央公論新社)がある。